盗まれっ子

盗まれっ子

盗まれっ子


ヘンリー・デイは七歳の時に、ホブ・ゴブリンたちに浚われ、その後、何十年も、彼らの仲間のエニデイとして森の中で生きています。
一度ホブ・ゴブリンとなってしまうと、次に人間の世界に戻るには、誰か別の人間の子供と取り替えられなければなりません。
それは、百年、あるいはそれ以上先のことです。
いっぽう、ヘンリーと取り替わったホブ・ゴブリンは、ヘンリーになり替わって盗んだ人生を生きていきます。
取り替え後の現ヘンリー・デイ(もとホブ・ゴブリン)が語る彼の物語と、
現エニデイ(もともとのヘンリー・デイ)の語る彼の物語が、交互に少しずつ語られます。
ともに、新しい境遇に戸惑いながら、手探りで、必死に生きています。


エニデイの境遇はよりいっそう残酷に感じる。
自らの意志で、望んで取り替わった現ヘンリー・デイとは違って、
エニデイは、当たり前に約束されていた日常から無理やり引っぺがされて、望んでいなかった世界に放り込まれたのだから。
人間であったころのことを忘れないようにしよう、と、思いだせることを書きつづるエニデイなのに、
まるで水が漏るように少しずついろいろなことを忘れていく。もとの名まえをなくし、いつのまにか言葉さえも。その過程は、本当につらい。


(取り替えさえなければ)ほぼ永遠の時間を生きるホブ・ゴブリンと違って、限られた人間の時間はぎゅっと濃縮されているよう。
つぎつぎに変化していく日常。成長、友情、恋、夢、憧れ、結婚して親にもなる。
ごくごく普通の人生の場面場面が、当たり前なあれこれが、「取り替え子」のヘンリー・デイには、一つ一つ手探りで、大冒険だった。
ヘンリーは成長します。わたしは、彼といっしょにどきどきし、人生の節目節目をかみしめる。人生って、こんなに劇的な冒険の連続だったんだ・・・
けれども、彼もまた実は遠い昔に浚われた子どもだったのです。無理やりに家族からも日常からも引き離された子ども。
現在の自分(他人から盗んだ自分)と、遠い過去に生きた本来の自分と、二つのアイデンティティの間で引き裂かれつつあるのでした。


不思議な、不思議な・・・それなのに、とてもまっとうな成長の物語です。
そのまっとうさの故に心打たれるのです。ラストのひたひたとくる余韻にはもう・・・


そう思いながら、また別に、読みながらずっと考えていたのは、ホブ・ゴブリンという存在の意味は何なのだろう、ということです。
わたしはこちら側から、あちら側を覗くような気持ちで彼らの暮らしを眺めます。
過去、人間は手に負えないものを妖精に手渡し、妖精のせいにし、そうやってバランスをとって暮らしてきたそうだ。
妖精の存在が、遠い昔人間の願いから生まれ、用がすめば都合よく忘れられてしまうなら、あまりに悲しい。ひどい話だ。
子どもの姿の彼らは、人間たちのエゴによって選ばれた生贄のようにも思えてきます。


だけど、エニデイはこう言う。
「妖精たちとの暮らしはぼくにとってヘンリー・デイとしての暮らしよりずっと現実的だ」
彼らのことを残酷だ、せつない、と感じるのは、わたしが彼らの世界の外側にいるからかもしれない。
わたしはわたしで、自分のいる世界が、「現実」だもの。


わたしたちは長くもない人生の中に、余計なものをたくさん詰め込んで、余計な回り道をしたり、ないはずのものを探したりして生きている。
回り道なんかしないで、余分なものは背負い込まず、余計なことはしないで生きていったら、もっとずっとすっきりするかもしれない。
たとえば、ホブ・ゴブリンという存在も。
だけど、そうしたら、いらないと思われたものは、どこへいくのだろうか。消えてしまうのだろうか。
消えてしまっていいのだろうか・・・余計なものだ。いらないものだ。でも、でも・・・
彼らはあそこにいるのだ。彼らの現実を生きているのだ。


いろいろなことがぎゅっと詰まった物語ですが、印象に残るのは、
森の美しさ。
エニデイの読書への渇き。夜中、公共図書館の床下で、ろうそくの火を頼りに次々と本を貪り読む彼の姿が忘れられない。
それから、ヘンリー・デイのなかからあふれてくる音楽の見事さ。
ホブ・ゴブリン同様「目に見えないもの(=芸術や自然の歓び)」が、見えるものと同じくらい鮮やかに存在していました。