帰命寺横丁の夏

帰命寺横丁の夏

帰命寺横丁の夏


続きが気になって気になって夢中になって読んだ。
純粋にすごくおもしろかったからなのですが、
怖がりで目立つことが嫌いで何でも三番手の主人公カズくんが、がらにもなく、このことに、のめりこんでいったのと同じ理由です。
そう、わたしも見ちゃったもの。部屋の中で膝を抱えた不安そうなあの子のあんな姿を。
物語なんてどうでもよくなった。(と、安心して思っていられるくらいに、すごく面白い物語なのだ)
一途に突き進むカズくんの願いがかないますように、かないますように、と強く念じながら、
彼に遅れないように、わたしも、ほら、この物語の中を、うだるような夏の太陽の下を駆けていた。


誰か自分以外の人を思うとき、助けたい、力になりたいと強く思う時、
自分の容量(と思っていたもの)を越えて、ものすごいエネルギーを発揮する人たちがいる。
子どもでも大人でも・・・そんな人たちの一人でありたいじゃないか。
さらには、そんな人たちを応援する一人でありたいじゃないか。
がらにもなく、いや、本来の力を発揮したというべきなのか、全力で突き進む和弘の勢いを応援する。


そして、あちこちに散りばめられた不思議なことが、何の因果か、吸い寄せられるように、ひとつところに集約されていく。
あ、あれ?と思っているうちに・・・物語のスピードは速い。
なんだろうなあ、のほほんと考えているうちに、えっ、えっ、えっ・・・そ、そうなのか。それは、そうなのか、あれもそうなのか、
いや、もともとこれは、こうだったんだあああ・・・
・・・お、面白すぎる。


入れ子のファンタジー『月は左にある』が、物語に重なる。
石の魔女はだれだったのか。魔女の虜囚はだれだったのか。
どこか遠い国の物語、魔法があって、王様や王子様がいて、ヒーローやヒロインがいて、秘密や冒険がふんだんにある物語にわくわくしながら、
それは、この世の物語(メインのストーリー)の裏地のようなのでした。
今を生きているということは、散文的な日々に見えるけれど、やっぱり不思議な大冒険の物語を生きているのかもしれない。


「帰命寺」について、水上のおばあちゃんの言うことは正しいのだろう。一般的に、という意味で。全体を見る、という意味で。
でも、全体を公平に見よう、とするとき、その中の個が、かけがえのない特別な個である、と思えるだろうか。
そこからはみ出したものはどうしたらいいのだろうか。
全体を形作る一個は、全体を平均した均一な一個じゃない。
逆に目の前のただ一つの個をかけがえがない、と強く思うとき、周りが見えなくなってしまうことも、やっぱりうまくないだろう。
どのようにバランスをとったら、うまくいくのだろう。


『月は左にある』の作者の迷いもここにあるような気がする。
こうなるように、と強く強く願って読んでいたから、読者は、ほっとした。
だけど、裕介が口をとがらせるのももっともな話なのだ。切れが悪い。
『月は…』の作者が一番よくわかっていて、承知の上で、あえて、このように書きかえた。
完成度よりも大切なものを選んだのだ、ということに、この人のすごさを思う。
この物語を主人公たちと一緒にわたしも大切に抱きしめたくなる。
『月が…』の面白さ(単独で本にしてほしいくらい)とともに、作者の気持ちを一緒に。


人だもの、迷う。
どこにも正解なんてない。ないほうがいい。
そうあるべきものも、あるべきではないものも、一緒にまぜこぜにして、
時にもやもやしながらも・・・そのもやもやさえも、簡単に切り捨てたくない。それを豊かさ、と呼びたい。


一途に信じ、がむしゃらに突き進む10歳の少年と、
信じつつためらうことで、深みをみせてくれる80歳の老人。
どちらも素敵だった。
大人になるということは、すっきりと片付かないものが増えていくこと。
そのことにどのように向かいあうかを教えてくれたのが80歳の先輩のように感じた。


さらに・・・
一度きりの人生だから、今日この時、この瞬間を大切に生きる。失敗しても、後悔しても、それもまた、尊い一度きりなのだ。それでいい。
それを教えてくれたのは、10歳でも80歳でもなく、その中間でさえもない、一人の少女でした。
直線で繋がっている時間からはみ出した者が、はみ出した場所から、贈ってくれたメッセージはなんてピュアだっただろう。