わたしのなかの子ども

わたしのなかの子ども (福音館の単行本)

わたしのなかの子ども (福音館の単行本)


「子どものころ、わたしは、ふしぎの国に住んでいた」というウェッタシンハさんは
自分の心の中に、子どものわたしが住んでいる、という。
ウェッタシンハさんが語る子どものころの思い出は、
びっくりするくらい鮮やかで、つい昨日の話ではないかと思うくらい、
風景も人々も、その時々の自分の気持ちまでも、こまごまとしたところまで、いきいきしています。
思い出話というよりも、
自分の中にほんとうに「子どものわたし」が今もしっかり目覚めているんだという感じ。
…と簡単に言ってしまったけれど、それはすごいことだ。


少し昔のスリランカの農村の暮らし。
テレビもパソコンも電話もない、何もかも地道な手作業の暮らしだけれど、
信仰に支えられた日々、
きっと実りは豊かであったことでしょう。
大人たちはだれもとても忙しそう。
忙しそうだけれど、ひとりひとりを見れば、決して、がつがつしていない。
現代のわたしたちよりずっと手間の罹る仕事に携わっているはずなのに、この余裕はいったいなんだろう、
ほんとに、一日の長さはわたしたちと同じ24時間なのかな、と思うほどに。
ゆったりと仕事をしている。
子どもの目に映る大人たちの姿は、ほんとに仕事を楽しんでいる感じがするのです。


隣近所に半同居のように暮らす親戚も、近所の人も、
「子どもたちは、村全体の子どもで、だれもが自分の子どもと同じようにめんどうを見たのです」
というふうだったから、
子どものウェッタシンハさんは、仕事をする大人たちのそばで、たくさんのお話や歌を聞かされていたのでした。
仕事をしながら、リズミカルに動かしている手もとの調子をとるかのように、語られたたくさんのお話がほんとに羨ましい。
きっと、
こういうことは、少し昔の日本の農村でも、同じようだったんだろう。風景の中に懐かしい匂い。


お母さんとおばあちゃんの確執のようなもの、子どもは、ちゃんと見ているし肌で感じている。
それだからといって、そのことを特別に考えることはなくて、そういうものなのだ、とでも言いたげに、
そっくりありのまま日常の光景の一こまとしてさらりと受け流しているふうなのが、興味深い。
そうではない部分もちゃんと知っているから、不仲(?)は決定的ではないのだ、ということも理解して、安心していられるのかも。
子どもにとっては、それぞれ、大好きな母であり、大好きな祖母であり、それだけ。屈託がない。


気ままに大人を追いかけたり、友だちとあそんだりもしたけれど、
心に残るのは、子どもの「わたし」がたった一人の時間をもっていたこと。その時間の思い出を大切にしていたこと。
家の中の暗がりや、森の中で、思い切り自分の世界に沈みこんでたったひとりでいる場面など、とっても魅力的でした。
こういう時間が、振り返った著者にとってどんなにかけがえのない時間だったことか、と思う。
良い感じに子どもを放っておいてくれる大人たちの集団が素敵だなあ。


思わぬ美しい宝物を探し出したり、
思いがけず怖ろしいものにおびえたり、嫌な出来事から逃げたり隠れたり、
ほんとはこわいはずのものがなんともわくわくする出来事に変わったり・・・
どれもこれも、みんなわたしにも、そして、自分の子どもたちの姿にも、似ていて、ふっと懐かしくなったりします。
豊かな自然のなかで。
ため息が出るくらいに美しい不思議の日々。


様々な道具を使いこなし、スピードが速くなり、どんどん地球がせまくなる。
便利な暮らしは幸せだろうか。ほんとうに幸せだろうか。
子どもたちが、「長い、終わりのない、美しい夢」を見る時間を大切にできるように、
大きくなった後も自由に、その夢を取り出して何度も味わうことができるように、
暗い道を歩くときも光とすることができるように、
それはとっても大切なことだよね、と思っています。
「眠りに落ちる時、わたしの心は、ことばでいいあらわせない喜びにみたされました」と言えるような暮らし方をしたい。
この本のなかから、ウェッタシンハさんの「子ども」が、わたしのなかの子どもにも「目覚めよ目覚めよ」と呼びかけてくれているみたい。