兵士はどうやってグラモフォンを修理するか

兵士はどうやってグラモフォンを修理するか (エクス・リブリス)

兵士はどうやってグラモフォンを修理するか (エクス・リブリス)


ボスニア紛争・・・込み入っていそうで難しい。
「わからなくても読める」の「わからなくても」には限度があるかもしれない。わたしは限度外?
読んでいれば、それなりに浮かび上がってくるものがあるし、それをキャッチするのですが、
同時に、困惑の度合いも広がります。


でも、
あえて何もかもを(ボスニア紛争という言葉も)白紙のままに、物語を読んでいきます。
アレクサンドルは(そして作者の略歴と重なるのですが)ドリーナ川のほとりのヴィシェグラードという町で少年期を過ごし、
やがて紛争に巻き込まれた町を逃れてドイツに移住するのです。それが14歳のころ。


三部構造の物語です。
最初の二つの部で、繰り返しつつ、光の当て方を変えつつ、ヴィシェグラードの暮らしが描かれます。
あまりに強烈な親戚たちや隣人たちのエピソードは、
泥臭い事件さえも、そして、その後、兵士に蹂躙された日々さえも、あえて言えば、牧歌的で、郷愁を誘うものがあります。
作者は遠い場所に身を置いているのだなあ、と感じさせる懐かしさがあるのです。激しい場面や酷い描写でさえも、なんだか静かです。


最後の部で、彼は十年ぶりに故郷を再訪する。
でも、そこに彼の居場所はないのです。
紛争を挟んだ十年はまるで百年のようではないですか。
遠い日をアレクサンドルと共に過ごした人々は、この地に残り、紛争のなかで、次々踏みにじられ、奪われ、生きのびてきたのです。
何を見て何を聞き、何に目と耳をふさぎ、だれと身を寄せ合い、誰を裏切ったか・・・
すべてがどの街角にも刻印されているにちがいない。だれもが知っているに違いない。
ここにずっといた人たちは。
ゾランの「おまえはよそ者なんだよ!」という言葉が突き刺さります。
この言葉はゾランの言葉になっているけれど、本当はアレクサンドル自身が自分に投げかけたことばなのかもしれません。
昔馴染みと痛みを共有できない痛みでもあります。
この町を逃れたアレクサンドルもまた、楽な道を歩いたわけではなかったのに、それを分かち合える同胞はいないのです。


アシーヤをアレクサンドルは探し続ける。
本当にアシーヤはいたのだろうか・・・とアレクサンドルは自分に言葉を投げかけている。
それは、本の中に向かってわたしも投げかけたいことばでした。
本当は・・・
ううん、いたかどうかなんてどうでもいいのかもしれない。
実際いたとしても、アレクサンドルがさがしているのは「別の」アシーヤのような気がしてくる。
彼の懐かしい故郷、失われた故郷の象徴のようでもあります。


最終章「未完成なものの筆頭同士だ」では、まるで詩のように、不思議な言葉の羅列が続きます。
それらの言葉は、アルバムに貼られたスナップ写真。
アレクサンドルの思い出を形作ってきたことばたち。
それはいいかえれば、「失ってしまったもの」。
たとえば「痩せたボーラおじさん」や「ニ―ル・アームストロング抜きのユーリイ・ガガーリン」「サッカーのシュート」
そして、痛ましいけれど、こんな言葉もまじっている。「ピストルの出番のないパーティー」「装填してないピストル」
「平安の一瞬」も・・・


アシーヤと、「失ってしまったもの」の群れ。
でも、それ、確かにあったはずなのだ。
「よそもの」でしかない彼の、ふるさとであり、少年時代であり、
二度とそれと一緒にはなれない彼の、痛みとあこがれ。


この物語の始まりで、アレクサンドルは、祖父スラヴコから魔法使いの帽子と杖をもらいます。彼の魔法は物語を祖父から引き継ぐことです。
そのようにして語られ始めた物語ですが、
別の見方をしてみれば、もはや「よそ者」となり、この世界からはみだしてしまった彼が、
その世界の物語を描くためには魔法の帽子と杖を引き継ぐ必要があったのかもしれません。
物語を語り終えたことによって、魔法の先にある世界に入る扉の鍵を与えられたような気がします。