ふしぎなふしぎな子どもの物語

ふしぎなふしぎな子どもの物語 なぜ成長を描かなくなったのか? (光文社新書)

ふしぎなふしぎな子どもの物語 なぜ成長を描かなくなったのか? (光文社新書)


「人間には物語が必要です」と「はじめに」にも「あとがき」にも繰り返し書かれていました。
物語。


だけど、著者が示す「物語」は、ゲーム、テレビヒーロー、アニメ、マンガ、児童文学まで、ひっくるめての物語でした。
なんて広大だったのだろう。子どもが出会う物語っていったら、そう、こんなにたくさんあるじゃない。
怒涛のように、次々に、様々な分野から、子どもの物語(なんという膨大な資料!)が目の前に差し出されます。
(子どもの物語って、大人が意識して子どもに出会ってほしいものだけのはずないし、まず、わたしの偏狭さにも気がつきました。)


それにしても、膨大な「物語」のひとつひとつの解説(?)の深さに、圧倒されつつ、共感しつつ、冷や汗流しつつ、
でも納得してしまうのは、やはり「言われてみれば・・・」と腑におちるところが大ありだったからです。
何よりも、文字通り子どもの頃から親しんできた世界についての話であり、
副題の「なぜ成長を描かなくなったのか」との問いかけの答えをさがすミステリアスな体験が楽しかったのです。


370ページに、これだけ幅広い分野の物語が年代別にぎゅうっと濃縮されて詰まっているのです。
子どもの「物語」全般の歴史でもあり、評論でもあり、
さらに嘗て子どもだった(あるいは未だに子どものままの)自分を顧みる旅の道案内のようにも思います。


様々な分野の子どもの「物語」が、様々な変遷をたどって、現在はどこにいるのか。
不思議なことに、いや、この本を読めばそれも当然なのですが、
同じような軌跡(歴史)をたどって、どの分野もが同じ場所に留まっているようです。
副題に書かれているとおり「成長を描かなくなった」→そして混迷し壁にぶつかっている?
ここに至るまでの道筋や、理由を、
各分野、各年代ごとに、代表的な作品をあげながら、読者側の子どものありようだけではなく、
作り手側の事情、心情まで分析しつつ、読み説いていくのです。
作り手もまた、嘗て子どもであり、作り手でありながら受け手でもあるのです。
大人が一方的に物語を子どもに与えてきた時代から、
形はどうあれ、子どもが自分たちの欲する物語を作りだすように(作らせるように)なってきた、ということでしょうか。
(とてもスリリングですが、これらの「物語」のどこかに自分がいるのですよ。
その自分と、こういう読み説きの中で出会うと、かなりドキッとします。汗が流れます。
知らなかった自分、いや、知っていたのかな、知りたくなかった自分との対面^^)


その一方で、子どもの物語が「ここ」に至った原因は、
やっぱり子どもに関わる大人の問題でもあった事もわかった。
というよりも、たぶん、大人が子どもの物語を(子ども自身を)追いこんできたのかもしれません。
大人が子どもをずっとどのように扱ってきたか。
近代、子どもを「大人より劣った存在」として扱うことから、「価値ある存在」として大切に扱う社会に変わってきたことを著者は指摘します。
そのうえで、

>突然大人がみんな子ども好きになったとかそういうことではなく、これは、産業革命に伴い、質の良い労働者を生産するためでもありました。それでも生き残る確立が大幅に増えた子どもにとって、悪い話ではありません。
・・・ずるいですよね、この考え方。力のある者の、きれいごとに裏打ちされた打算ですよね。
自分より弱い存在を、強い自分のために利用する新たな活路を見出したのですよね。
強いものの意に反して、弱い(と思っていた)ほうが、その打算を越えた存在になったら、強いものはあわてるだろう。
(大人=権力者《施政者》、子ども=庶民《国民》、というふうに置きかえることもできそうです。)


子どもの物語は、というより、子どもと大人の関係が、今、壁に突き当たっているのかもしれません。
この壁をどうやって越えるのか、壊すのか、第一、壁の向こうにも世界はあるのだろうか。
子どもは・・・もしかしたら、この壁を大人なしで越えるつもりでいるのか。


私のなかでも、大人は子どもより強いもの、成長は必要なもの、という考え方が揺らぎ始めました。
そして、浮かび上がってきたのは、子どもに対する大人って何なのだろう、成長って何なのだろう、という疑問でした。
何よりも、大人のつもりの自分が、自分でも気がつかない部分で実は子どものままだったことも気付かされてしまった。
そして、子どもに一方的に自分の身勝手をありがたげに押し付けていたことにも気づいてしまった。


とはいっても、ここで、「はい、ごめんなさい」と手を引くのはやはり不安があるのです。
子どもの物語を(または子ども自身を?)このどん詰まりに導いた「大人」は、それなりの責任があると思うのです。
これからどこに向かうのか興味があるよ、で済ますことは無責任だと思うのです。
ではどうしたらいいのか・・・
大人としては、やはり子どもに大人になってもらわないと困るのです。
大人になった子どもたちに、わたしたちのもっているものすべて良いもの悪いものも引き継いでもらわなければならないのです。
子どもは大人にとって都合のよい存在ではなく、いずれ自分と代わるべき存在なのだから。
それを頭におきながら、見守りつつ、関わっていけたら・・・その関わり方を探しながら目を離さず、かな・・・