死ぬ気まんまん

死ぬ気まんまん

死ぬ気まんまん


ずっと前に読んだ佐野洋子さんの『神も仏もありませぬ』の中に出てきた94歳の女性の言葉を思い出しています。
 >「洋子さん、私もう充分生きたわ、いつお迎えが来てもいい。でも今日でなくてもいい。」
・・・笑いながら、「でも今日でなくてもいい」を、何となくわかる普通の感覚、と思ったものです。


佐野洋子さんがすごいのは、そして、この本に圧倒されるのは、そういう普通じゃないところ。
以前、『役にたたない日々』で、あと二年のいのちと宣告されたくだりを読み、わたしは驚き、泣きたくなった。
今は、泣きたくなったと思ったことをなかったことにしたくなっている(笑)


開けている。何もかも当たり前の顔で受け入れて、あっけらかんと日常をすごす。
砕けた無駄話が続く。
美しく見事な死の受け入れ、準備ではないだろうか。


普通の人にできるのだろうか、こういうこと。わたしはとても自信がない。
特に、置いていかなければならない「しがらみ」のことを考えると気持ちが萎える。


この本は、『役にたたない日々』のあと。
佐野さんは、元気です。
二年経ったのに死なない、と怒ってる。
併録の主治医の平井センセイとの対談。

佐野 ガンと心臓は、どっちがいいですか。
平井 心臓のほうが、早く逝けるからいいかもしれないですねえ。・・・
お、おーい。
いえ、佐野さんの生き方(死にざま)をあっぱれと認めているから言える言葉。
平井先生は、対談の最後のほうで、「佐野さん、死ぬということがわからない人が多いから、死についてもう少し書いてくださいよ」という。
それに対する佐野さんのことばが心に残る。
全部引用するのもナンなので、一部だけ、ちょこっと写させてくださいね。
・・・だから、死ぬということはそう大げさに考える必要はない。自分が死んで自分の世界は死んだとしても、宇宙が消滅するわけでも何でもないんですよね。そうガタガタ騒ぐなという感じはする
逝ってしまう人のそういう姿勢を知っていたら、残される人たちも、心穏やかに見送れるのだろうか。


もう一度、「洋子さん、私もう充分生きたわ、いつお迎えが来てもいい。でも今日でなくてもいい。」を思い出す。
私の夢や、やりたいことはたいしたことではない。あと何年生きようと、それほど人さまの役にもたつまい。
わたしにとって、死ぬのが今日でなくてもいい理由は、残された人たちが困ったら嫌だなあ、だ。
ほんとは困らないよね、きっとなんとかやっていくにちがいない。
普通に暮らしてくれる、と信じられるなら、去るほうも穏やかに去れるのではないか。
一方で、残るものとしては、穏やかに普通に生きているよ、あなたがいようがいまいが、と言ってやりたいじゃない。
あなたとの時間は素晴らしかった、でも今は、あなたなしで回る世界の上で、わたしも回っているのだよ、と言えたら、
それは、死にゆく人にとっては、喜ばしい安心ではないだろうか。


佐野さんも佐野さんの遺族もそんな関係を築けていたのかもしれない。
だから、この本の中には、置いていく「しがらみ」への言葉はない。
死にゆく人も残される人も、見事。見事という言葉も申し訳ないくらい見事。そんなことを思いつつ、元気に読み終えた。