いのちに触れる

いのちに触れる―生と性と死の授業

いのちに触れる―生と性と死の授業


四年生の少女の作文が、まず、いきなり掲げられる。
書き出しはこうです。

>とても、ざんこくでした。
ニワトリを殺しました。・・・・
鳥山敏子先生は、担任する四年生の子どもたちとともに、
生きたにわとりを狩り、殺し、食べる、という授業をしたのでした。


恥ずかしいのですが、正直、読み始めたときには、この冒頭の女の子と同じ気持ちだったのです。
残酷だ、と思いました。四年生の子に何もそこまで、と思いました。


始まりはにわとり殺し、そして、原発、それから、豚一頭をまるまる食べること。
こういう体験を通じて、先生は子どもたちに何を伝えようとしたのか、何を感じさせたかったのか、どのように考えさせたかったのか・・・


いろいろな思いが、今すごくたくさん渦巻いている。脈絡なく。でも、どの思いもみんなわたしには大切なことでした。
鳥山先生は、子どもたちに作文を書かせますが、書けないこと、沈黙するしかない子の沈黙を受け入れている。むしろその沈黙を大切にします。

>性急にことばにする必要はないではないか。かんたんにことばで表現できない内容だからこそ沈黙したのだ。この沈黙がそのことを雄弁に語っている。これからずっと考えて行く問題なのだ。
だから、むしろ今性急に「わかった!」なんて言わなくていいのかもしれない。


エゴ、と鳥山先生は言う。
にわとりから原発へ・・・どうして繋がるのか不思議でしたが、それをつないでいる言葉が「エゴ」でした。


生きものを殺す仕事は自分ではしたくない。でも食べることは好き。
自分の町に原発はいらない(危険だから)。けれども便利な暮らしはほしい。
わたしの中にもある(あった)身勝手な思いを見破られ、平手打ちを食らっているような文章が続きます。


生きることは、食べるということは、どういうことなのだろうか。
生きることの上に、経済(効率・大量生産)やエゴ(=「安くておいしいものが食べたい、でも汚いのもクサイのも嫌」)が優先されたために、
わたしたちのからだもこころも少しずつ少しずつ歪められてしまったのではないだろうか。

>生きるということは、生きているものを食べていることです! 食べるということは、生きているものを殺すということです! 殺して自分のいのちにしてしまうことです! 
食べるもので生きていないもの、生きていなかったものは一つもありません。
鳥山先生の声が耳に痛く響きます。


時期が時期であるため、原発の授業のところはかなり印象に残っているのですが、
なかでも、この言葉。

>子どもたちをかんたんに「原発反対」という子にしてはならない。
わたしはこの半年間、ずっとずっと怯えていました。
次々に明らかになる事実、集めて回る洪水のような情報。新しいことを知るたびに、大量の汗が噴き出して、頭の中が真っ白になりました。
何も考えてなんかいませんでした。ただ怖れていた。怖れて叫んだ「原発反対」はたぶんに感情的なものでした。
そのようにして、何一つちゃんとしたことができないまま半年経ってしまったのでした。
この次の半年を、違う半年にするためには、ここで「なぜ原発反対なんだろう」ともう一度考え直さなければいけないのではないだろうか。
自分の聞きたい言葉だけを集めるのではなくて。
この曖昧な「感情」を血肉の通った「形」にするために。
鳥山先生の言葉はこのように続くのです。
>子どもたちをかんたんに「原発反対」という子にしてはならない。しかし、いま、原子力発電がどういうしくみになっていて、どういう問題をかかえていて、どういう人たちによって支えられ、好むと好まざるとにかかわらずその恩恵をうけているか知らせたかった。
また、このような記述も。
原発反対の人たちからみれば、推進側の一方的な考えを子どもたちにうえつけるといわれそうだが、わたしは、子どもたちのなかに人間に視点をあててものをとらえる力が育っていれば、子どもたちのからだは、深いところで問題をとらえることができると思った。
鳥山先生の授業の記録から学んだこと。
・・・こういうことができると信頼できる四年生に、鳥山先生は、子どもたちを導こうとしたのでした。
こんな歳になってしまって、この子たちに恥ずかしいけれど、わたしもこの子たちのあとについていかなければ、と思います。



最後に、一点、どうしても納得できていないところがあるので、どうしようかと思ったけれど、それもやはり書いておこうと思います。
それは冒頭のにわとり狩りの場面です。狩ることは本当に必要だったのでしょうか。
もともと野放しのにわとりならわかるのですが、わざわざ、かごから出して追い放して狩りこむ・・・
最初から、結果は決まっているのだから、狩りというより、なぶっているような気がする。虐めているような気がする。
ニワトリを抱いて泣いていた子どもたちは、にわとりを「いただくべき命」と見るよりも、虐められている友だち、と受け取ったのではないでしょうか。
この光景、むしろ、ブタの章で、窓のない豚舎で育った豚が日の光を浴びるのは屠場に入るときだけ、という不自然さに結びつくのです。
日の光を初めて豚が浴びるときと、つかのまの自由(?)を与えられたニワトリと。
そして、豚の話を聞いた少女の作文・・・強制収容所ユダヤ人の話を思い出した、という部分に繋がってしまいます。


この本『いのちに触れる』が世に出たあと、鳥山先生の真似が出てきたのでしょうか。
そのことの一部が梨木香歩さんの『僕は、僕たちはどう生きるか』のなかで、一人の教師の姿となってとりあげられていました。警鐘として。
私がこの本を手に取ったのは、梨木さんの本に関連して、あるブログで鳥山先生のことを教えていただいたからです。(ありがとうございました)


鳥山先生の実践と、真似っことは明らかに違います。
とても危ないことかもしれない、と思います。
鳥山先生は、子どもたちに伝えたいやむにやまれぬ思いがまずありました。
それを伝えるための手段をさまざまさがし、これらの授業の実践にたどりついたのだと思います。
そして、実践にあたっては、教師として、深く勉強し、調査し、膨大な時間を使って周到な準備を整えます。
同時に、教え子たちを、その授業を受け入れられる器に育てつつ、見極めたうえでの実践でした。


この本の章題を眺めれば、衝撃的で、劇的なインパクトがありすぎるように思います。
「ニワトリ殺し」「ブタを一頭まるごと・・・」
だから、形のほうが、いろいろな意味で華やかな印象となって、読む人の注意を喚起するのだと思います。
そして、それ以上に大切な、伝えたい思いや、はぐくんできた子どもたちとの信頼などが、なおざりにされることもあるのではないか、と案じます。


「真似したい」と思ったら、それだけですでに失敗しているのじゃないかしら。
もしかしたら、『僕は、そして僕たちはどう生きるか』の例のあの人のように、誰かを傷つけてしまうかもしれない。
とても大きな危険を犯すことになるのではないだろうか。
仮に、鳥山先生と同じように強い思いがあったとしたら・・・
それを伝える方法は自分で探すべきだと思います。