僕は、そして僕たちはどう生きるか

僕は、そして僕たちはどう生きるか

僕は、そして僕たちはどう生きるか


先日読了した『君たちはどう生きるか』に続いて、もう一人のコペル君がここにいた。
最初のコペル君の本『君たちはどう生きるか』を読んだとき、自分の歩く横をこんな本(こんな叔父さん)が並んで歩いてくれたら幸せだ、と感じた。
けれども、こちらのコペル君の本は、並んで歩く、というよりは、大きな見守りのうちに、思い切り突き放されたような気がした。
甘ったれていないで、しゃんとして、しっかり見なさい、しっかり考えなさい、と。


その一方で、作者は、弱いものたちに張り巡らされた狡猾な罠を指摘する。
それは、子どもたちに寄り添うような全集を出す大きな出版社、高らかに理想を謳う教師など・・・
一見しただけでは、どこに悪意があるのかわからない、むしろ善意しか考えられない場所に潜む悪意や無責任さに対して、
ずるく周到に張られた罠に対して、
・・・わたしはこの作者のこれほどまでの真摯な怒りに、初めて触れたように感じた。

>人は、人を「実験」してはいけないんだ。
という言葉。それはつまりこういうことですよね。
「実験」するのは、強い立場にある人だ。されるのは、弱い立場にある人だ。
強い立場は、「実験」の名目をどのようにも擬装できる。悪意を善意に見せかけることができるし、我欲を奉仕に見せかけることもできる。
している!


そして、一番辛いのは、自分もまた無意識に(ここポイントですね)、自分の立場(強み)をずるく利用しているのだ、という気づきかもしれない。
ここから、『君たちはどう生きるか』の中で、自分の卑怯さを知ってしまったコペル君と繋がっていく。
繋がって、そして離れていく・・・
だけど、わたしは無条件で、この本のコペル君についていくわけにはいかない、と思っています。
なぜって、わたしは大人だからです。
大人のずるさは、
コペル君ではなくて、
インジャを傷つけたあの人や、ユージンを傷つけたあの人に、繋がる可能性が高いからです。


梨木香歩さんは、自分の卑怯さを知ってしまった者を甘やかさない。
「考えろ」と突き放します。
その先に見えるものをちらりとのぞかせてもくれるけれど、それがすべてではない。
考えて考えて・・・考え抜いて、自分で道を選べ、と突き放します。
その突き放しは、大きいのです。突き放しつつ、まるごと受け入れられていると感じるくらいに大きいのです。


物事は見かけどおりではない。
この本が出版されたのが2011年4月。
あの日のことや、あの日以降にこの国で起こっていることを作者が想定して書いたはずがないのに、
何度も何度も意識してしまった。
普通、みんな、という言葉のふわんとした心地よさ。だけど本当はなんとあやふやでいいかげんで危なっかしいのだろう。
大勢の側についていることの安心感から離されたとき、こんなにも不安定な気持ちになる自分の弱さを思いながら、

>「非常時」という大義名分の威力に負けて、自ら進んで思考停止スイッチを押し、個を捨ててしまう。
ということも確かに実感としてありそうで・・・だから考えなくては、と強く思う。


それでも、人は群れの中で生きるものだ、と梨木さんは言う。
それは、足並みそろえて歩いていく、ということではありません。
時には立ち止まり、遅れ、それから、群れに背を向けてひとりきりになることもありなんです。
ひとりきりになる。ということは、群れがあることを意識しているからできることなのですね。


表紙には空っぽの椅子。
この椅子はこちらに向かって開かれています。
群れのなかにいても、群れから離れていても、ここに「あなた」の椅子はある、ずっとずっと。
いつでもそこにいってあたりまえのように座ることができる椅子。
そんな椅子の存在を感じられる群れで、わたしたちはありたい。
あるときには、だれかを、ここにおいで、と手招きし、
あるときには、わたしもまた、黙ってそこに迎え入れてもらいたい。