君たちはどう生きるか

君たちはどう生きるか (岩波文庫)

君たちはどう生きるか (岩波文庫)


梨木香歩さんの『僕はそして僕たちはどう生きるか』を図書館予約しているので、その予習のつもりで、この本を手にとりましたが、
予習だなんて、吉野源三郎氏に、本当に失礼であった、と、今思っています。


この本の主人公(?)コペル君には、彼の悩みや思いをゆっくりと聞き、道を説いてくれる叔父がいます。
こうしなければいけないよ、ということではなくて、
背伸びをしても高みを目指そう、という誘いかけであり、その地平に、自分自身で自分の道をみつけるようにとの促しでもあります。
古い古い本です。
言葉も古く、時として、その言葉にはちょっと照れ臭いような感じにもなります。
でも、若い日にこの本を夢中で読んだ、懐かしい、と言われる方たちがちょっと羨ましいです。
コペルくんの叔父の役割をこの本が担ってくれるような感じ。


この本が書かれたのは1935年だそうです。
軍部が政権を握っていた時代。
満州事変を経て、太平洋戦争へ、時代は徐々に暗い時代に入っていたことでしょう。
そろそろ作家たちも自由な執筆が困難になっていた時代だそうです。
そんなときに、滔々と人生の理想を説くこんな本が出た、ということにびっくりします。
いえ、そんなときに、こんな本を若い人たちに向けて書いてくれた吉野源三郎、そして企画した山本有三の熱い思いに頭が下がるのです。
著者はあとがきの中で、この本(全集)の発刊を決意した山本有三の思いに触れています。

>(言論や出版の自由が著しく制限され始めた時代であることを踏んで)・・・そのなかで先生(山本有三)は、少年少女に訴える余地はまだ残っているし、せめてこの人々だけは、時勢の悪い影響から守りたい、と思いたたれました。先生の考えでは、今日の人々には、偏狭な国粋主義や反動的な思想を越えた、自由で豊かな文化のあることをなんとかしてつたえておかなければならないし、人類の進歩についての信念をいまのうちに養っておかなければならない、というのでした。
この言葉をかみしめながら読むと、この本の一章一章が深く胸にしみてきます。


中学一年生のコペルくんの一年間。
戦前の中学の様子、交友関係など、興味深いです。時代らしい校風、気質。
この時代に中学に進学する、という子どもたちは裕福な子どもが多かったのでしょうか。
そのなかで浦川くんのような庶民の子どもが居心地悪そうに混ざっている様子など、たぶん、時代を映しているのだろう。
その一方で、今の子どもたちとなんら変わらない教室の子どもたち。
屈託なくはじけたり、いがみあったり・・・ずるい人間もいるし、横暴な人間もいるし、誠実な人もいる。それは今とちっとも変らないような気がする。


コペルくんの日常は、平々凡々としたものだっただろう。
だけど、その平々凡々のなかにも、深く考える余地があり、よりよく生きるヒントがたくさん隠されている。
彼の体験、そこから考えたこと、そして、彼の父親変わりの叔父の言葉などにより、コペルくんという小さな少年をより広く深い世界へと旅立たせます。
人はたったひとりではないこと、たくさんの人が支え合いながら生きているのだ、という気づきから始まって。
コペルくんはわりと裕福な家の子で、しかも優等生です。
いわゆるいい子で・・・まるで「道徳」の教科書にでも採用されるような逸話のなかで、コペルくんの存在は、いつもよき規範のほうにいるように思いました。


ところが、ある事件がきっかけで、彼は「卑怯者」になってしまう。
彼の苦しみが突然、身近になりました。
こういう経験は、きっとだれにでもあるのではないだろうか。
自分が、思い描いていたような人間ではなかった、と思うこと。
理想を高く掲げて歩いていたはずなのに、いつのまにかそこから遠く隔たってしまったこと。
罪悪感や後悔と同時に浮かび上がってくる自分を正当化したい、という強い欲求・・・
きっと、だれにでもある。
それも何度も何度も形を変えて・・・ああ、もうこんな思いはするまい、と思いながら・・・
たいていは、ひとりで悶々として、どうにか解決していったり、しなかったり。
どちらにしても、苦い思い出となって残る。
そんなとき、こういう経験を素直に話すことのできる相手がいたら、
こういう経験にさえも、何か意味があるのだ、と説いてくれる人がいたら、
どんなにいいだろう。
人ではなくてもいい。本なら、黙って静かに何もかもを聞いてくれるかもしれない。


この本が出てから約65年です。
そして、今、このとき、わたしは大人です。
大人として、「わたしはどう生きるか」をこれまで以上に真剣に考えていかなければならない時なのだと思っています。