原発のウソ

原発のウソ (扶桑社新書)

原発のウソ (扶桑社新書)


昔読んだ白土三平の『カムイ外伝』のストーリーの一部を思い出しています。
忍者カムイの必殺技・猪綱落としを、敵の忍者に奪われ、技をかけられ、あわやという時、カムイはかけられた技を自ら破り、助かる。
忍者は自分の技を編みだす(?)ときに、同時に、その破りかたも一緒に編みだして(?)おくものだ、と確かそういう話だったと思う。
常に死と背中合わせのカムイの世界に「想定外」という情けない言葉はないでしょう。


はっきり真実と違うことを言ったら、「ウソ」ってすぐわかるけど、
本当のことの一部だけを語り、あとのもっと大切なことを黙っていたり、
相手を明らかに一定の方向に誘導するために、あえて黙っていたりしたら、
そのほうが、はっきりしたウソよりずーっとたちが悪い。
それを長い年月かけて着々と進めていたなら・・・恐ろしいことです。


福島第一原発の事故がまだ収束の見通しさえたたない今、
なぜ原発をこのまま推進したいのだろう。逆に、原発は、なぜ、どこが、恐ろしいのだろう。
著者は、図などを用いながら、わからんちんおばさんのわたしにもよーくわかるように、語ってくれた。
あおることもなく、感情的になることもなく、科学者の言葉は冷静で明晰に事実とその根拠を語ります。


福島第一原発の今、そしてこれから。何が怖ろしいのか、心配なのか。
原発が安全でクリーンで低コストであることが真っ赤な大嘘であることも、
石炭や石油がすぐすぐなくなるわけではないらしい(その証明も)
さらに日本の海の水温を上げ続けていた犯人はいったい何だったのか。
電気は原発無しでも既存の発電所だけで日本じゅうが充分間に合うのだということなどなど・・・
政府や電力会社がどうしてこんなに原発にこだわるのか。
そして、「もんじゅ」について語られたあとの「本当に恐ろしいものを造ってしまったものです」という言葉を読んだ時には、本当に震えていた。


わたしはたぶん便利な生活に慣れてしまっていた。
だけど、便利な生活と引き換えに幸福感を切り売りしているような気がすることがある。
便利さと幸福は、イコールじゃないんだなあ・・・
過去には戻れないかもしれないけれど、未来はまっすぐ一本の道になって伸びているわけでもないだろう。
ちょいと今いる道から外れることならできるはずだ。違う道をさぐることもできるはずだ。
便利さではない幸福をさがすこともできるんじゃないだろうか。


著者は言う。
「私は40年間、危険な原発を止めようと努力してきました。しかし、止めることはできませんでした。その責任が私にはあります」と。
著者でさえ、そのように言うのなら、
「だまされた人にはだまされた人なりの責任があります」
という言葉には、返す言葉もないのです。
原発なんてないほうがいいんだよなあ、とぼんやり思いながら、本当はなぜないほうがいいのか、きちんと知ろうとしなかった。
あれ、いいのかなあ、と思いながら、いつのまにか、楽な方に流れ、なあなあになってしまったのは、自分が勉強不足だったこともある。
理科苦手の普通のおばさんだって、普通なりに学べることはあったのに。
せめて疑問に思ったこと、引っ掛かったことをそのままにしないくらいのことはできたはずなのに。
自分の愚かさのつけは、ちゃんとついてくる。
そのつけを払うのは、自分ではなくて、子どもたちだなんて・・・
今さら「想定外」なんて言葉に逃げるわけにはいかない。
せめて、負わなければならない負荷をできるかぎり減らすために、今わたしにできることを精いっぱいやっていくしかない。


・・・やっぱり原発はいらない。