お伽草紙

お伽草紙 (新潮文庫)

お伽草紙 (新潮文庫)


伝説やお伽噺は、わたしたちにいったい何を伝えようとしているのだろうか。
受け取る側の気持ち次第でどのようにも意味を為すものなのだろうけど、
太宰治というフィルターを通して供された古い物語たちは、大人っぽくて、皮肉にねじれて、
あれあれ、そこかしこに『人間失格』の葉ちゃんが顔をのぞかせているような気がする。


西鶴の「新釈諸国噺」や、江戸時代の楽人の日記などを題材にしたものが、本の前半には並び、
それは、どちらかといえば、古典の口語訳のような感じで、どこまでが太宰治で、どこまでが原典なんだろう、と思いながら読んでいました。
これらもおもしろくないわけではないのですが・・・


でも、最後のほうの、四つのお伽噺「瘤取り」「浦島さん」「カチカチ山」「舌切雀」は、あらすじを知っているだけに、興味津津。
前半の作品に比べて、これら四つのおとぎ話は、作者も、大胆に遠慮なく、自在に展開していく感じが、まるで水を得た魚のようです。
どの物語も、今までたいして考えたこともなかった善悪・正邪・価値観など、そっくりひっくり返されてしまった。
うーーん、と考えたり、なるほどーと思ったり、ほおーと唸ったり。


「カチカチ山」のタヌキ、哀れだな。醜くさもしくて、でも、それだけだなあ、なーんにもないんだなあ、彼には。哀れだな。
もともと、あるおとうさんが、娘の「狸さん、可哀想ね。」という言葉を聞いたことから、生まれた物語のようです。
そういわれてみれば、あそこまで執拗に復讐するって、ウサギ、怖い。 


「浦島さん」好きです。
浦島さんを背中に乗せた亀の語る蘊蓄話もおもしろい。
「言葉というものは、生きている事の不安から、芽ばえて来たものじゃないですかね」
という言葉が心に残ります。
そうかもしれないなあ。
不安だから、言葉をさがす。満足している時、言葉はいらないように思う。
そうしたら、言葉が発達すればするほど、人々の不安も増すのでしょうか。
文明も物質的な豊かさも、極めれば極めるほどに、不安も増すのかもしれない、とつらつら考えてしまいました。


「浦島さん」の玉手箱とはどういうものだったのか。どんな意味があったのか。
太宰治の語る玉手箱の意味に、惹きつけられました。
物語のあらすじを変えているわけではないので、
間違いなく浦島太郎は300年後の故郷で、あっというまに白髪のおじいさんになるのですが・・・
「幸福」のイメージが、心に広々と広がっていく。


お伽草子』は、
空襲警報下、防空壕の中で、あるお父さんが娘に絵本を読んでやりながら生まれた物語、という設定。
太宰治という人は、こんなふうに、娘に寄り添って絵本を読んでやることもあっただろうか、とそんなことを思っています。