雛の顔

「雛の顔」
朽木祥

鬼ヶ島通信 2011年夏号
鬼ヶ島通信社
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黒いしみがこびりついてとれない雛の顔。でも、前と同じようにきれいな雛の目。
まるで、今の季節の青空のようだ。
青々と茂る緑を抱いた澄んだ空は、あってはいけない毒をこびりつけられてしまった。


短い物語です。広島に原爆が投下されたあの日の物語なのです。
広島市の郊外の旧家だろうか。
タツ、真知子、昭子・・・この家の三代の女たちは、別々の場所で、別々の形で原爆を体験することになってしまった。
そして、彼女たちの周りの人々も。


この家や周りの人々の話を読んでいると、以前読んだ「彼岸花はきつねのかんざし」の也子の家族が重なってきます。
タツは「彼岸花・・・」のおばあちゃんみたいです。昭子は大きくなった也子のようだし。
きっと、あの日とそのあとの日々を、この物語と同じように過ごした人々がいたのだろう。
そして、一番気になるのが真知子。
真知子の幼さ・美しさは、まるで現実離れしてみえる。周囲のこと一切から身も心も離れて、気ままで。
彼女の「予感」の感度のよさも含めて、ほんとうなら濃いはずのキャラなのだろうに、
「人」というにはあまりに影が薄くて、薄いからこそ余計に存在感がある。忘れられなくなる。
気になって忘れられないこの人は、何か「そういう」使命を負って、どこかからやってきたのでしょうか。
お雛様の顔と真知子とが重なるとき、人間の災厄を一身に受けてくれるのがお雛様だったなあ、と思うのです。


一瞬のうちに亡くなった人たち、
苦しんで苦しんで亡くなった人たち、
残留放射能を浴びてしまった人たち、
大切な人を失くしてしまった人たち、
はからずも生き残ってしまったことを苦しまなければならなかった人たち・・・


この物語の中で、死んでいった人は誰に恨みごとを言うこともしませんでした。
「爆弾が憎い」「戦争が憎い」とも言わず、
ただ生きられないことを悲しみ、そして悲しみさえ細々と消えてしまうように気力も弱まっていくようで、いたたまれなかった。
そして、遺された人々が、死んでいった人々のことを思い、死なせたことに責任を感じたり、生き残ったことを悔やんだりするのを読むのがつらかった。
憎しみさえ入る隙間のない悲しみ・苦しみは、なんて深くて、本当に悲しいんだろう。


わたしたちは「 過ちは 繰返しませぬから」と誓ったのではなかったか。
同じ苦しみや悲しみがまた繰り返されることになったら、わたしたちは、この物語(そして本当にいた人たち)にどんないいわけができるのだろうか。
原爆をつくることができて、実際作ってしまった人間たちと同じ、わたしも人間なのだ。
同時に、原爆に死なされていった人たちとも、同じ人間なのだ。
黒いしみのついたお雛様の、きれいな目がまっすぐ見つめているのは、昭子じゃなくて、読者である私の顔なのかもしれない。