ジーノの家

ジーノの家―イタリア10景

ジーノの家―イタリア10景


イタリアといってまず思いだしたのは須賀敦子さんですが、
内田洋子さんのイタリアは須賀敦子さんのイタリアとは微妙に違います。
うまく言えないのですが、須賀さんのイタリアはモノクロ、セピアっぽいイメージがあるのだけれど、
内田さんのは、もうちょっと、はっきりと彩色されたようなイメージかな。
(わたしが読んだ)須賀さんの本のなかには過去が息づいているけれど、この本のなかにあるのは現在なのだ、と思います。


副題はイタリア10景ですが、むしろイタリアの人々の心の10景、といえるかもしれません。
内田洋子さんが暮らしたあちこちの町や地方で出会った人々のこと。
この人々はごく普通の人たち、ありふれた人たちです。
だけど、あたりまえのことですが、
一人ひとりが生きてきた人生はかけがえがなく、それぞれにドラマチックなのだ、ということを再認識させられました。
生きてきて今ここにいる、そのことの不思議。
イタリアという風景のなかから浮かび上がってくるのは、むしろ日本にいるわたしとわたしの周りの人々の顔です。
そして、彼らの傍らにある「もの」たち。
家であれ、船であれ、絵であれ・・・
人の思いを映しながらも、黙って、ひたむきに、ただそこにあるそれらがやはり気になって仕方がありませんでした。



バールというのはなんだろう。
文中何度も出てきたバールは、たぶんコーヒーショップ、それもうんと簡単で気さくで、すごく回転のいいコーヒー屋さんなんだろうな。
そして、このバールで、ほっと一息いれながら、いろいろと人脈を広げてもいるらしい内田さんの行動力が素敵でした。
何かが始まる場所なのかも。


黒いミラノと呼ばれる危険地帯に、犬一匹をおともに足を踏み入れる物語にどきどきし、
独特の空気感を感じながらも、じっくりと一文一文味わう気分にはとてもならず
「頼むから、早く帰ってきて」とわめきたくなる小心者の読者でした。
犬の身代金の話も・・・怖いよ。
怖いけれど、怖い人たちにも生活があり、共同体があり、独特の連帯がある。したたかで熱い共同体。
舌を巻きつつ、お見事、と思う。


イタリアの北斎の話になんだこりゃと思い、半信半疑!と言いつつ、目の前に展開されるめくるめく運命の不思議に翻弄される楽しさ。
運命の不思議といえば、表題作でもある『ジーノの家』の運命はいかんともしがたく重たくて、重たいのにどこかあっけらかんとした部分もあり、
したたかに生きていく人の強さに、打たれます。
そして、黙して語らず、いつの日もただじっとたち続ける「家」という箱が、なんだか愛しくてしかたなくなってしまう。


そして、最後に船の話。
ごくさりげない会話のなかでも、「船が傷む」とは言わず「老いる」という言葉を使う内田さんの知人。
彼にとって(イタリア人にとって、なのか?)船とはなんなのだろう。
イタリア語はわからないけれど、きっと、(英語と同じように)船の代名詞は「彼女」なのだろう。
船は…母であり、子であり、恋人であるかもしれない。
命を終えていく人と、新しい旅を始めようとする船との対比は、なんて静かなのだろう。なんという深みなのだろう。


内田洋子さんのイタリアには色がある、と書いたけれど・・・
幾重にも重なり合った色の、その奥に別の色が見えてくるような、そんな色でした。