醜聞の作法

醜聞の作法 (100周年書き下ろし)

醜聞の作法 (100周年書き下ろし)


>――一切をめでたしめでたしにするにはどうすればいい?
>お話のかい、それとも本当のかい。
大体、醜聞って、作法という言葉からは一番遠いところにあるような気がするのですが・・・
それでも、あえて作法というならば。
嘘はっぴゃくに、ホントのことがわずかに混ざって巷に広がっていく醜聞=スキャンダルは、そういう意味ではお話によく似ている。
お話がめでたしめでたしで終わるなら、醜聞もそのように収めてみせるのが作法というものでは?


まるで翻訳もののような文章、退廃的な空気感、古風で洒落た言い回し。
読んでいると、物語に取り込まれるよりも、物語に突き放されているよう。
そんなだから、この文体に、いとも簡単に手玉にとられてしまいます。(それが心地いいのだから不思議)


(ひそひそ、と囁きます)
醜聞の仕掛け人がいます。
ある目的をもって仕掛けるのです。巧みに。
目論見どおりに広がっていきます。


小出しに出てくるゴシップは、仕掛けられたとわかっていても、さあどうなる、と気になって気になって、続きが知りたくて知りたくて。
わたしは一瞬、パリの下町、パン屋か鋳かけ屋の軒先に立っているような気がします。
でね、こんなことを喋っているのだ。
「あの話聞いた? さる侯爵家の養い子がね・・・」
「ああ、今話題になっているあの話。ほんとうに気の毒な。本当に腹の立つ。あれはほんとうのことなの? いったいどこの誰の話?」
ひまっ!(笑)


そうしているうちに、なんだかおかしなことになってくる。
どこまでが噂話で、どこまでが現実の話だかわからなくなってくるのです。
この「話」の当事者は、何者なのか、本当にいるのかいないのか。
めくるめく、めくるめく。
これはいったい何なのだ。
さらに気がつけば、物語のなかでも、仕掛け人さえも、収拾のつかないところまで広がってしまっている醜聞。
そいうものでしょう。醜聞ってそんなもの。
一度放してやったら手のなかで制御なんてできないのが醜聞。


で、思ったこと。
このパソコンの小さな画面の奥で、日々、同じことが起きているのかもしれないよ。


最初に戻ります。
醜聞に作法がありますか。あるならば・・・それをみせてくれるはず。
世にもスマートに、エレガントに。かっこよく小洒落てみせたら極上の醜聞。
(思えば、炎上なんてすごく野暮だよね。)