夕暮の緑の光

夕暮の緑の光 (大人の本棚)

夕暮の緑の光 (大人の本棚)


・・・ところで、表題にもなった「夕暮の緑の光」とはどういう意味なのだろう。
夕暮れ、といえば、わたしなどは単純にオレンジ系の色を思い浮かべます。
でも、筆者は緑の光・・・。
爽やかできれいなイメージだけど、緑の光って、なんだろうなあ。
木の葉、草の葉の色?


もしかしたら緑は、夕焼け色の補色だから?
赤く燃える夕空、夕焼け色に染まった町の風景のなかに、一瞬浮かび上がる補色の緑、という意味だろうか。
筆者が子どものころに戦争を体験し、ことに長崎の原爆の閃光を見ていることを思います。
選び抜かれた言葉、研ぎ澄まされた文章のエッセイです。
文章はしんと静かな感じがします。
でも、この美しくて静かな文章には、補色として筆者の容易ではない体験が潜んでいるように感じます。


筆者が愛するものを語るとき、例えば本、故郷、本屋の佇まい、そして今住まう家。
やるせないものを語るとき、例えば、占領下の町(あの餅投げは・・・)、兵士の認識番号の意味。
うんうん、と頷きつつ、「わかるわかる」と気軽に言えない何かがあるような気がするのです。
文章の表層に現れた「わかる」風景と、書かれない何かとが合わさって、透明で静謐な雰囲気が生まれているんじゃないか、と。
「夕暮の緑の光」って、そういう緑なんじゃないか、と思ったのでした。

>学生時代、“ブッテンブロークス”を読まなければ、田舎に居ついた疎開児童でなければ、原子爆弾の閃光を見なければ、郷里が爆心地に近くなければ私は書いていただろうか、やはり書いていたと思う。
外から来たこれらの事は私にものを書かせる一因になったとしても、他に言い難い何かがあり、それはごく些細な、例えば朝餉の席で陶器のかち合う響き、木洩れ陽の色、夕暮の緑の光、十一月の風の冷たさ、海の匂いと林檎の重さ、子どもたちの鋭い叫びなどに、自分が全身的に動かされるのでなければ書きだしてはいなかったろう。
小説とは「過去の復元である」と筆者は言います。また、
「小説という厄介なしろものはその土地に数年間、根をおろして、土地の精霊のごときものと合体し、その加護によって産みだされるもの」と。
そうして、その土地の精霊のなかには、夕暮に緑の光を見せるものもいるのではないかな。
夕暮の光は一色のはずがない。
一面に染まった色の奥深くに仕舞いこまれている色を筆者はみている。
そしてその色があるから、ひときわ輝かしい夕焼け色になる。忘れ難い色になる。