ムーミンパパの思い出

ムーミンパパの思い出 (ムーミン童話全集 3)

ムーミンパパの思い出 (ムーミン童話全集 3)


ムーミントロールがまだうんと小さかったときのこと、
ムーミンパパは、ムーミンママの勧めで「思い出の記」を書きます。
一章ごとに、子どもたち(ムーミントロール、スニフ、スナフキン・・・みんなまだ小さくてかわいいんですよ)に読んで聞かせる、という構成です。


冒険家になることを決心してムーミン捨て子ホームを飛び出した若いムーミンパパは、素敵な仲間たちに出会います。
そして、天才フレドリクソンが作った船「海のオーロラ号」で、すばらしい冒険をするのです。
これは、ムーミンパパの青春記です。
ここには、わたしたちが青春期に体験したいろいろなこと(そのまま書いたらちょっと照れ臭いこと)が、
「冒険」という形を借りて、象徴的に描かれているような気がします。
家出(自立、親離れ)、友情、夢やあこがれ、自惚れ、思いこみ、そして迷い、失敗、挫折、希望、初恋・・・


この物語(思い出の記)は、ムーミンパパの著作であり、書かれていることはパパの視点である、ということを時々思い出します。
たとえば、仲間の一人ヨクサルのこと。
初めて会った時、ムーミンパパはヨクサルについて「ねむそうでしたが、やさしくて、したしみやすい印象を受けました」と言っているので、
彼に好印象を持ってはいるのです。
でもその一方で、彼の性格を、何に対しても無関心、なまけものでねぼけねこのようにだらしない、と酷評しています。
ヨクサルは自由人です。彼独特の哲学のもとに生きていると思うのですが。
ムーミンパパにはそうは見えないらしい。
自分の偏った見方を、だれにでも通用する常識のように言い切るあたり、ムーミンパパの小ささ(?)が見えるようで、微笑ましくもあります。


ムーミンパパが尊敬(?)するフレドリクソンの言葉は印象的です。

「ぼくたちは、いちばんたいせつなことしか考えないんだなあ。きみはなにかになりたがってる。ぼくはなにかをつくりたいし、ぼくのおいは、なにかをほしがっている。それなのにヨクサルは、ただ生きようとしているんだ。」
フレドリクソンは、みんなのありのままをそのまま受け入れる。難しいことを肩肘張らずにやっている。
好きだな、フレドリクソン。ムーミンパパが惹かれるの、わかるなあ。
この「思い出の記」をフレドリクソンが書いたらどんな物語になるだろう。
他の誰かが書いたら、どんな物語になるだろう。
想像するのも楽しいです。


ムーミンパパの冒険は、楽しいこともたくさんあったけれど、何度も、おそろしい生きものに遭遇して怖い目にもあいます。
竜のエドワード、モラン、ニブリングの群れ、おばけ、うみいぬ。
こういう連中に遭遇したときに、まず逃げる。話し合う。
勇敢なムーミンパパと仲間たちは闘おうとしません。闘いという言葉はきっと彼らの辞書にはないのだろう。
たぶん、彼らの勇気は仲間を助けるためのもので、敵を打ちのめすためのものではないのだと思う。
そもそも敵とか味方とか、それも彼らの辞書にないにちがいない。
ただあの生きものはああいうものなのだと、それだけ・・・そして、うっかりするといつのまにか家族になっている(笑)
この許容量の深さは、とても不思議で魅力的。


ムーミンパパたちが出会った怖いいきものの中で一番恐ろしいのは、規則大好き・「教育ごっこ」大好きのヘムレンおばさんらしい。
恐ろしいものたちと怖さを乗り越えて話し合おうとしたし、モランの脅威にさらされたあわれな犠牲者を助けるために海に飛び込む勇敢な冒険者たちなのに。
地震かみなり火事おやじ」という言葉を思い出し、楽しい気持ちになる。


冒険家を志すムーミンパパですが、孤独感に苦しむときもやってきます。
ムーミンパパは苦しみから逃れようとして、「いっそニョロニョロにうまれればよかったなあ」と言う。

どうせたどりつけない水平線にむかって、ただよっていればよかったのです。それなら、なにもしゃべることもないし、いっしょうけんめいになって、なにかをする必要もなかったでしょう
でも、別の章でフレドリクソンがニョロニョロについてこんなふうに言っているのです。
「ニョロニョロってやつは、ただただよいつづけているんだ。いつまでたっても気の休まることがないんだね」
楽な道なんてないんだね。


6章の終りに描かれた靴下を編むお化けの絵が好き。
7章の終わりの、海のなかを進む「海のオーロラ号」が好き。次々にともるさかなの明かりが美しい。
旅ゆけば、苦しいこともたくさんあるけど、時にはこんなに美しい光景に出会えることもあるんだね。


エピローグはとてもすてきでした。こんな楽しみを用意してくれていたなんて。
ありがとう。良い旅を!