どこ行くの、パパ?

どこ行くの、パパ?

どこ行くの、パパ?


「この本について、語ってはいけない。一読にまさるものはないからだ」と、ル・モンド紙は書いているそうです。
語れないんです。
この読後感、どんなふうに書いたらいいかわからない。


著者ジャン=ルイ・フルニエは、テレビのコント作家、アニメ作家、ユーモア作家として、フランスではその名を知られる人だそうです。
彼の二人の息子は重い障害を負っていました。

>障害児のことを話すとき、人は悲惨な事故の話でもするような顔になる。だから僕は一度だけ、笑顔できみたちのことを話したい。きみたちには、よく笑わされた。しかも無意識に笑わせてくれただけじゃなかったね。

そのようにして、二人の息子との日々や思いを散文的に綴っています。

>「障害のある子は、天からの贈り物だよ」などと言う連中もいる。まじめに言っているのだ。でもそれが障害児をもつ人であることは、めったにない。
そんな贈り物をされたら、天にむかって言いたくなってしまう。
「ああ! どうかそのようなお気づかいは・・・」と。

障害のある子を持った親の気持ちをわたしは本当にわかろうとしたことがあっただろうか。
思えばきれいごとで話をつないできたかもしれない。
それを言ってはおしまいだ・・・そう思って言葉を選んで、選んだ数少ない言葉で建前だけを語っていたかもしれない。
暗いものから目をそむけて、そういうものが存在しないふりをすることが勤め、と感じたこともあったかもしれない。
そういうものがみんなフキンシンだと思っていたから、
さあ、どうだい、おかしいだろう、普通とちがうってことは。
と、面と向かってそういわれたら・・・困るのだ。困っている自分が情けないのだ。恥ずかしいのだ。


著者の毎日はエンドレスの騒音と苛立ちの繰り返し、子のための努力はことごとく水泡に帰し、一時も意志の疎通を図れたと感じることはない。
そして、奇跡は決して起こらない。
息子との生活を、息子の日々を著者は笑い倒します。
それは可笑しいのですが、読みながら、もじもじしてしまう。笑っていいんだろうか。ここで、笑ってしまっていいのか、この安全地帯で?
悲しんだり涙を流すほうがいともたやすいのに。そうして「感動した」と言っているほうがずっとたやすいのに。笑うのは苦しいよ。
でも笑う。だっておかしいんだもの。
そして、笑いながら、悲しくなる。だって悲しいんだもの。悲しいけど悲しんではいけない、と思う。
そして、そう思うことがいやらしいなあ、と思う。
いったいどんな顔でこの本を読めばいいのだ。


笑ったらいいんだろう。日々はまわっていくのだ。当事者はいちいち嘆いているわけにはいかない。
彼の息子のどの一瞬一瞬も、ともにいたら辛い場面・・・そう思うのは、わたしが部外者だからだ。
この子たちの親にとっては、いちいち辛がってはいられない。泣いてなんかいられない。だから笑うしかないのだ。


そして、著者は書いているのです。

>おい、ジャン・ルイ、おまえは自分のこともままならない小さなふたりの子どもを冗談のネタにして、恥ずかしくないのか?
恥ずかしくない。そんなことで、愛情は減ったりしない。

>・・・ごめんよ、マチュー。こんなことを考えても悪く思わないでくれ。きみを笑いのネタにしたいんじゃなくて、たぶん僕は自分をネタにしたいんだ。この辛さを笑ってしまえると証明したいんだ。


笑いながら、思う。
もしかしたら、笑うことで、息子を、世間から隔絶した暮らしをする息子を、社会と結び付けようとしているのではないか、と。
そんなお気楽なことを言わないでくれ、と言われるかもしれない。
この笑いは時にブラックだ。ここで起こる笑いは居心地が悪いかもしれない。
でも、笑う時、少なくても私は、相手のことを真っ直ぐ見ている。目をそらすよりはましかもしれない。
でもでも・・・
そんなふうにしか繋がれない、繋がせてやれない。親はせつない。


ああ、だめだめ。わかったようなこと言ってごめんなさい。
ほんとうは何もわかっていない。何も言えない。読み終えて思ったことは、そういうことです。