プラテーロとわたし

プラテーロとわたし (岩波文庫)

プラテーロとわたし (岩波文庫)



『プラテーロとわたし』は、小学五年生の時に担任の先生にいただいた本で、
それは、理論社から出ている伊藤武好・百合子訳/長新太挿画のハードカバーでした。
正直がっかりしたのでした。わくわくしながら読み始めたのに、
ずいぶん退屈な本だと思って、そのまま本棚に入れて、何年も放っておいた。散文詩なんて読んだことがなかったのです。
何のきっかけだったか、高校生のころ、再びこの本を手に取り、そのとき初めてこの本の素晴らしさに気がついたのでした。
大好きな本になりました。
いっぺんにたくさん読むのがもったいなくて、学校に行く前に一篇、寝る前に数篇、と大切に読みました。
好きな詩の(暗記はできなかったけれど)お気に入りのフレーズがすらすら出てくるくらいには、繰り返し読んだものでした。

『プラテーロとわたし』は、いくつも違った訳で出ているのですが、
手許の伊藤武好・百合子訳に思い入れが深くて、これまでは他の版を手に取ろうと思ったことはありませんでした。
このたび、岩波文庫版を手にとったのは、この本には伊藤武好・百合子訳の本には含まれていない詩も入っている、と知ったからです。
久しぶりに手に取った「プラテーロとわたし」は長南実訳。
どうかな、と思ったのですが・・・美しかった。こちらの訳も大好きになりました。
挿絵がバルタサル・ロボというスペインの画家の手によるペン画で、長新太さんとは別のプラテーロに出会えたのも嬉しいおまけつきでした。

プラテーロは、ロバです。
詩人はプラテーロに語りかけます。
風景や季節を謳った詩は本当に美しくて、行ったことのないアンダルシアの風の匂い、音まで聞こえるような気がします。
人々(ことに弱い人々・・・子どもや病気の人々、ジプシーたち)によりそうやさしさは、控えめに見えて、本当は強くて激しい。
それだけに無力感が痛いほどに伝わってきます。
詩は静かです。

激しい言葉を投げかける偏見に満ちた人々の言葉や瞳。
苦しい死、理不尽な死、死にゆく人や動物の姿をそのまま写し取ったものもある。
自由への渇くような憧れもある。
どれも激しい思いがこもっているだろうに、やっぱり静かなんです。
「プラテーロ・・・」と詩人は愛情深くロバに語りかけます。
「さあ、プラテーロ・・・」と。
幼い者に語りかけるよう、ただ一人分かりあえる親友に語りかけるよう・・・
そうすると、言葉から激しさが消えて、ただ悲しみと深い愛だけが残るような気がします。

悲しみも喜びも憧れも、そして美しいものへの心をゆするような賛美も、愛しいものへの震えるような思いも、
プラテーロというフィルターを通して、静かに沁み入ってくる。

ずいぶん久しぶりにプラテーロと詩人に会いました。
この本を大切に読んでいた若い時を思い出して懐かしかったし、
この本がやっぱり大好きだ、ということを再確認したのでした。