土曜日はお楽しみ

土曜日はお楽しみ (岩波少年文庫)

土曜日はお楽しみ (岩波少年文庫)


ニューヨークに住むメレンディ家の四人きょうだいは、新しいクラブをつくりました。
それは、土曜日ごとに順繰りに、四人の一週間分のお小遣いをまとめて全部、一人がもらって、
どこでも行きたいところに行き、なんでもやりたいことをやる、というクラブです。
お小遣いが三倍ちょっと!(一番小さなオリヴァーはお小遣いの金額が少ないので、全部合わせて三倍と少しになるのです)
それを四週間に一度、ひとりじめして使えるのです。


もてあますほどのうーんとたくさんではなくて、三倍ちょっと=1ドル60セントという金額、いいかもしれない。
やりたいことが、現実的にすぐ思い浮かぶくらいの、でもひとりで使うには充分大冒険の金額だから。(1940年代)
この1ドル60セントで、4人は、とびきりの土曜の午後を過ごします。
初めて一人で出かける夢の場所、そのドキドキが伝わってきて、自分のいろいろな「初めて」を思い出しました。
行き先は、美術館、オペラ、サーカス、美容院・・・
それぞれにとっては憧れの場所ですが、なんだ、わりと優等生的(?)な行き先だな、と思った。
だけど、大丈夫。いや、大丈夫じゃないからおもしろいんですが、ちゃんと(?)忘れられない事件が起こることになっているのです。
今まで見えたつもりでいたものが、そのことによって全然別のものに見えたり、
うれしい拾いものをしたり、
自分の不注意から、ドキッとするような出来事、ぞっとするような出来事を引き起こしたり。
でも、後から振り返ってみれば、まあるく収まっていくのは、ひとつには彼らの周りの大人が素敵だから、かもしれません。
愛情深い大人の見守りのもとで伸びやかに過ごす子どもたちの日々がうれしい。


以下、蛇足の感想ですが・・・
自分は平凡な日々を送っているけどそれがつまらないとは思わない、とメレンディ家の子どもは思っています。(なんて素敵)
オリファント老婦人は、そんな子どもたちにこんなに素敵な言葉を贈ります。

>「それはね、あんたが人より良く見える目を持っているからだし、人より良く聞こえる耳を持っているからですよ。そういう人は、毎日をつまらないなんてあんまり思わないものですよ。」

「平凡」な一日一日を特別な日々と感じられるようになるのは、一人一人の心がけ次第かもしれません。
でも一方で、「平凡」な日常が保証されているってすごいことかもしれない、と思う今日この頃。
平凡な今日の続きがこれから先もずっと変わらずにあるはずだと信じることは、なんと根拠のない保障だっただろう。
そして、それを「つまらない」とか「つまらなくない」とか思うことが贅沢に思えることもある。
平凡な日々じゃないのに、平凡なふりをするのも、やりきれないものではある。
それでも、「良く見える目・良く聞こえる耳」を持っていれば、平凡じゃない日々に、たぶん何か光るものを拾い集めることができる。
かもしれない。
そうあってほしい。そうありたい。

>「カフィ、世の中が平和で戦争がなかったときはどんな感じだった?」

ランディのこの問いかけに、はっとします。
にぎやかで楽しい子どもたちの日常を読んでいると、これがいつの時代なのかわからなくなってしまいます。
でも1940年代――第二次大戦下なのでした。
戦時である、ということは、子どもたちにも影を投げかけていたのだろう。
アメリカが戦場になることはなかったけれど、一見平和そうに見えるけれど、手放しの喜びの物語ではないのかもしれません。
人に聞かなければ「平和で戦争がなかったとき」を知ることができない、そういう「平凡」な日々の中に子どもたちはいたのでした。