欲しがりません勝つまでは

([た]1-5)欲しがりません勝つまでは (ポプラ文庫)

([た]1-5)欲しがりません勝つまでは (ポプラ文庫)

>あの過酷な戦争を生きのびるのに、私は、詩や小説や絵や、美しいコトバなどが手もとになければ、ひからびてゆく気がしていた

朝日新聞3月29日朝刊の斎藤美奈子さんの文芸時評『本にできること』のなかに、
田辺聖子さんの『欲しがりません勝つまでは』が紹介され、↑の言葉が引かれていました。
この言葉に惹かれて、この本を借りてきたのです。


1928年生まれ。
うまれたときからずっと戦争の中にいた田辺聖子さんの13歳(女学校二年生)の時から17歳で終戦を迎えるころまでの日々。
弾むような少女の心。きれいなものが大好きで、引き出しの中にはかわいらしい宝物の数々。
読んで読んで読みまくり、書いて書いて書きまくっていたころ。友人たちといっしょに編集した文芸冊子など。
戦下であろうが、平和な高度成長期だろうが、
少女たちの日常の光景も、好きなことも憧れも・・・なんだ、変わらないんだなあ。いや、それが当たり前か^^


同時に、時代が時代であることをあまりに素直に写す鏡のように、
ヒトラーを崇拝し、ヒトラーユーゲントの若者たちに連帯意識を持ち、
死を恐れず(むしろ親しく感じながら)、戦場の英雄たちを慕っていた。
まるで、テレビのアイドルたちを語るような雰囲気でさえある。


田辺聖子の親たちの言動にむしろちょっと驚きました。
へえ、こんなこと、普通に口にすることができたのか、と。
たとえば、一億玉砕が叫ばれていた渦中に、
「もう、ええかげんにしたらええのに、アメリカみたいに物の豊富なトコにかなうはず、あらへんがな」と父。
「早う丸焼けにならんうちにバンザイしたらええのになあ」と母。
こういうことを近所の人と世間話しながら言うことができたのか。
権力の目を憚って言えなかったんじゃないか、と思っていたので意外でした。
こういう明晰な大人たちが当時もたくさんいたのだろうか。それとも、大阪という土地柄にも関係があるのだろうか。
それだけに、娘との温度差(=若者の純粋さ、“教育”の力)にびっくりするのですが。


田辺聖子さんは少女の日、ずっと小説を書いていました。
それは、好きな作家の文体をそっくりまねたものだったけど、少女の瑞々しい憧れや不安、大切にしているものなどが表れていて興味深いものでした。
宝探しもスパイ物語も、冒険物語も、この国のために働きたい、この国の礎でありたいという純粋な心が垣間見られてせつない。
さらに、「大量殺人」に等しい空襲に次ぐ日々にお姫様が出てくるお伽噺めいたものを書いていた、というから、痛々しい。


戦争が終わる。
信じていたものがすべて覆されていく。何もかも、自分自身さえも信じられなくなっていく田辺さんの姿は、
空襲という名の大虐殺の最中よりも、痛々しく感じられます。
教育という名の洗脳は、若く瑞々しい心になんてことをしたのだろう。


田辺さんが自分を取り戻すよすがになったのは、たぶん本であり、書くことであっただろう。
戦争末期、死を覚悟しながら、ぎりぎりまで(何もかもなくすまで)書いていたように。書かずにいられなかったように。

>咽喉がかわききったところへ水を飲むように、手当たりしだいに読んだ。いまはもう信じられるのは、こんなことだけみたいな気がする。

文学少女を自認する田辺聖子さんにとって、
戦争中を生きのびさせたのも、戦後に自分をとりもどさせたのも本(読むことであり書くことであり)だったのだと思います。
死ぬことを恐れない、という気持ちから、やがて「生きたい」という渇望に変わっていくことは、
まるで眠っていた木々がいっせいに芽をふくようなうれしさでした。