八日目の蝉

八日目の蝉

八日目の蝉


薫=恵里奈のまわりの大人たちはみんなよく似ている。
一見正反対に見える希和子と恵津子も、それから、丈博も。我欲に囚われた人たち、という点で。
自分たちが檻の中に囚われているから、彼らの愛も、相手を自分の檻の中にともに封じ込めようとする愛になってしまう。
自分と愛する者とだけで完結しようとするから、その外の世界は存在しない。
どんなに麗しい愛でも、やっぱりそれはエゴでしかないと思う。愛する人を不幸にするだけの。


やがて、タイトル「八日目の蝉」の意味が分かる。分かった、と思った。
そうしてすごく悲しくなる。
何度も何度も表紙を見る。
表紙の挿画もまた悲しい。


だけど、分かったつもりでいた「八日目の蝉」の意味がふいに変わります。光が見えます。
解放――
それは思いがけないところからやってきた。
「どうしてわたしなの」という言葉が突き刺さる、なんて無残な人生だろうと思いました。
それなのに、そこから光が生まれる。
その光が、自分に巻き付いた鎖を断ち切り、さらに、当事者すべてを見えない鎖から解き放とうとしているのです。
思いがけないところって思ったけれど、希望があるとしたら、やっぱりそこなんだろう、と後になって思います。


  >茶化すみたいに、認めるみたいに、なぐさめるみたいに、許すみたいに、海面で光は踊っている。


読み終えてまた表紙を見る。
タイトルも絵柄も、読書中、悲しい苦しいせつないと思いながら何度も眺め直したものだけれど、
後になってみれば、地色の薄紅色がなんて温かくやわらかなんだろう、と思ったのでした。
希望は、ほんとにどんな土壌からも芽をふく。