星座から見た地球

星座から見た地球

星座から見た地球


不思議な読み心地の本でした。
この本、読点「、」がひとつもないのです。
読点のない文章は、どこかよその国の言葉を読んでいるように感じます。
そして、たくさんの人物が現れるのに、名まえが一切ないのです。
(A、B、C、Dと呼ばれてはいますが、特定の誰かを意味するわけではないみたいです)
名まえがない、ということが、こんなに不安定な気持ちにさせられる、とは思ってもみませんでした。
とらえどころがない。影が薄い。人としての「肉」の感じがないんです。
どこか、うんと遠いところから、そう、空の高いところから、眺めているような感じかもしれません。
ああ、そうだ、彼らが人間だとしたら、わたしのほうがむしろ人間ではないんだ・・・


年齢がばらばらな子どもたちの一瞬一瞬の行動をまるで、写真をとるように切り取って見せられます。
次々、順繰りにA、B、C、D・・・A、B、C、D・・・A、B、C、D・・・の物語が語られます。
でも最初に出てきたAと次に出てきたAが必ずしも同じ子どもであるとは限りません。
時間も前に進んでいるのか、後戻りしているのか、とまっているのかわからない。
切り刻まれた時間がそのまま文章になっているので、
いったい、この情景は何を表しているのか、なぜこうなったのか・・・一向にわからないのです。


忘れたころに突然、前に読んだ情景の続きが現れたり、つづくのかなと思うと尻切れトンボのまま放っておかれたり。
それから、似たような光景(よく似た文章)が繰り返され、まるで符牒のように繰り返し表れる言葉が、既視感の世界に誘います。
しゃぼん玉、麦わら帽子、バス、しまのくつした、二つあるつむじ、潜水艦、コーヒー牛乳、病院・・・など。
不思議、なんだか懐かしい。


だけど。
ほんの一瞬の子どもの情景ですが、人がいるところには、必ずその人の思いがある。
何かの思いをこめてその一瞬を過ごしているのだ、と知るのです。
愛おしいような、けなげな思い。
嬉しいこと、悲しいこと、悔しいこと、情けないこと、途方にくれてしまったこと・・・
そうしたささやかな気持ちの一つ一つが、ささやかな痛みのようにちくちくと突き刺さる。
その痛みが、輝く光のように思えてきます。
ああ、いったいわたしは何人の子どもたちのいくつ分の光を見たのでしょうか。


遠い宇宙からこの地球を、人間とは違う目になって眺めているような気がします。
電灯の明かりではなくて、ささやかな人の気持ちのゆらぎだけが光として見える目になって。
そうしたら、地上の人は星に見えるのではないだろうか。
さまざまな色・明るさでまたたき、寄り集まったり離れたり、時にはすうっと消えていったりまた輝いたり・・・
(その光源は、実は最後の一行にあるかもしれない。)
わたしは、それを見ている。
またたきをちくちくと痛いと感じ、その痛みを愛おしく思いながら。