哲夫の春休み

哲夫の春休み哲夫の春休み
斎藤惇夫
岩波書店


旅の物語です。
哲夫の旅は、目的を持って自ら積極的に乗り出したガンバやグリックとは違って、父の要請により、仕方なく出かけた旅でした。
仕方なく、と書いたけれど、それでは「哲夫の旅」になりません。
自分では気がつかないけれど、やはりそこには「必然」があったように思います。
哲夫自身に強い必然が。その哲夫の「必然」が、出会うべくして出会った道連れの旅の「必然」をも引き寄せます。
旅の目的は「解放」です。


どうにも扱いきれない思い。解決不能の苦しみ。ため込むには重すぎて身動きできなくなったとき、人はどうするだろうか。
それでも無理やり抑え込むしかないのだろうか、忘れるのだろうか、無意識に封印してしまうだろうか。
それで、済むだろうか。
小学生でもない、中学生でもない宙ぶらりんの、気候さだまらない春休み。
この時期の不安定さが、旅人たちの心持ちに重なります。
哲夫の旅は、父の故郷への旅。父の幼い日にさかのぼっていきます。
まるで母の胎内に戻り、もう一度生きなおすかのように。
曽祖母―父の母の母は、自分に連なる孫の孫まで、さらにその先まで見守る大きな母のように感じました。


物語は1988年の朝から始まります。
主人公哲夫が小学校を卒業した春休みの終りの物語です。
ということは、現在の哲夫と同い年の子どもたちにとっては、哲夫は父母の年代なのです。
哲夫が父の子どもだったころにタイムスリップ(?)する物語ですが、
読者の(哲夫と同い年の)子どもたちもまた、この本を読みながら、自分の父母の時代へのタイムスリップを体験するはずです。
哲夫が子ども時代の父や父の家族をそっと障子越しに眺めたように、
現代の子どもたちもページの間から、子ども時代の父母(哲夫とみどり)をこっそりと眺めるのかもしれない。
読者を巻き込んだ入り子構造の、手の込んだ本のようです。


沖見おばあさんは哲夫に言います。
「・・・ひとは、けっしてしあわせになるために生きているんではないってことだよ(中略)ただただ、深く感じとるために生きているってことだよ」
哲夫もみどりも小学校を卒業したばかり。だけど、辛いことも苦しいこともたくさん我慢してきたのです。
自分の頑張りだけではどうにもならないことが世の中にはあるのだ、ということをもう知っているのでした。
そんな子どもたちに、その場しのぎの底の浅い慰めは通用しないのです。そのうえでの誠実な、温かな言葉でした。
「しあわせになるために生きているんではない」


『見るなの蔵』のその後の話を私もそこで聞きながら、
答えのない苦しみを耐えていた子どもたち(と嘗ての子どもたち)の顔とお話がだぶるのを感じています。
そして無邪気に遊ぶ幼い日の雅之や順子の横顔を思い浮かべます。
彼らの行く手に待ち受けるのが、喜びだけではないことを、わたしたちはすでに知っています。
たぶん、どの子にもどの子にも、待ち受けている苦しみがあるのだろう。あって当然なのだ。それを思うとせつないけど。
だから、沖見おばあさんの言葉が沁みてくる。


沖見おばあさんはこうも言いました。
「お話はね、いつだっておしまいがある。そのおしまいから、あそこから哲夫は、歩きはじめている」
そうです。
お話のつづきを歩いて行くことができるわたしたちなのです。
お話は、「いちゃぽーんとさけ」て私たちの背中を押してくれます。それぞれの新しい旅へ。


死をはらんだ川・荒れる冬の海も、水が生きているという夏の海や川も、同じ川や海なのです。
そして、たぶんもっともっとたくさんの表情を持っているに違いないのです。
どの海・川も同じように大切に心に刻んで、一歩一歩、歩いて行ける旅でありたいと思います。