雪の上のあしあと

雪の上のあしあと雪の上のあしあと
杉みき子
恒文社


いくつかの雑誌に嘗て連載した随想を集めたものとのこと。
杉みき子さんの文章は読んでいると、なんだかほっとします。
1930年に越後高田という土地に生まれて以来、ずっとその土地に暮らし、その土地を愛し、その土地を離れようとは思わなかったそうだ。
新潟の冬をイメージすると、雪深く暗く、さぞ越すのが大変だろうと思ったのですが、他郷のものがなにをかいわんや、だわ^^
杉みき子さんは、雪が好きだといい、
子どもの時の雪の思い出は、軽やかで楽しげで、しんとした静けささえも、美しく、神秘的な感じがします。
冬の情景は、冷たさよりも、明るさや、温かさを感じるのです。
この本のなかには、雪に関する風景の話も多いのですが、ほんとうに郷里を愛している。
というよりも、郷里の風物の一部に御自身も喜んでなっているように思えました。


御自身を定住型、と言われます。あちこちに居を移すことはなく、生活の基盤を腰を据えてこの地に置いてきたのでした。
読んでいてほっとするのは、この安定感のせいかもしれません。地道でゆったりと根を張る生き方に惹かれます。


それから、幼いころから本が好きだった杉みき子さん、
深く読書されてきたんだなあと、その教養が滲み出ているように思えて、自分の浅さが悲しくなりました。
意識して豊かになろうとしなくても、好きなものを好きなように読みながら、自然に満たされ高められていくのは、
読書の質のせいだと思います。高い質の読書を若い時にしてこなかったことが私は悔やまれて仕方がない。


ことに、好きなのは、「古い宝石箱から」と題してまとめられた、子どもの頃の思い出をつづったいくつかのエッセイ。
本棚にならんだおとうさんの世界文学全集の背のタイトルをたどり、祖母に教わりながら読み方を覚えた事が、
文字との出会いだったこと。(のちには、この中身を好きなように読むようになる)
世界が不思議な謎に満ち満ちていたこと。少し大きくなってみれば、「なあんだ」と思うことばかりだったとしても。
ああ、幼い心には、この世はなんて不思議だらけなのか。でもそれを何十年もたってなお鮮明に語ることのできる瑞々しさ。
また、若い日の読書がどんなに大切か、ということ。
「幼いころ、意味もよくわからぬまま読んで、忘れたつもりでいた話が、実は心の奥深く沈んで、もう一度浮かびあがるきっかけを待っていた」という話、
そして、そのとき、「この物語は本当にわたしのものになったのである」という言葉に、感動しました。
長い長い年月を経て、こんな体験ができるなんて、これに勝る読書の喜びってあるでしょうか。
また、「よろこびの発作」の話。何気ない風景なのに、
ふっとこの場面を見た瞬間(たとえば、青空に浮かんだアドバルーン、たとえば、道に沿って並んだ電柱・・・)、
わけもなくうれしくなる。
それは、幼い日の喜びの体験に由来しているらしいこと。
風景と喜びとが結びついて何十年もあとまでも幸福感となってやってくる・・・そういうことってありますよね。
子どものころの体験って不思議ですね。
できるだけたくさんの質の良い文学や芸術に触れ(それがそのときにはわかってもわからなくても、きっといいのですね)、
たくさん感動して、たくさん喜んで、そうして日々を過ごすことが、
一生失うことのないかけがえのない財産になるんだなあ、と思ったのでした。


ゆっくりと時間をかけて、というより、他の本に浮気をしながら、ぽつぽつとあいた時間にこの本を読み進めていました。
定住型の杉みき子さんは、いつでも動かず、ここにいて、私を待っていてくれました。
動かない、ということはさびしいことでも貧しいことでもありません。
心は若々しく、知的で、不思議を楽しみ(それは常に勉強することでもあるだろう)、たくさん感動し、喜び、意欲的に動きまわっている。
なんて豊かな人生。
わたしもこんなふうに暮らしていけたらいいなあ、と思います。
まずは、若い時に出会いそびれた古典(今からでも間に合うかな、読めるかな)にこれから出会っていきたいな。