ローカル・ガールズ

ローカル・ガールズローカル・ガールズ
アリス・ホフマン
北條文緒 訳
みすず書房


架空の町フランコーニアが舞台。
訳者はあとがきで「閉鎖的で知的刺激に乏しく、若い人の人生の芽を摘み取ってしまうような町」と書いています。
この町に暮らす女性グレーテルを主人公にした連作短編集。
作品により、グレーテルの一人称語りであったり、三人称語りであったり。
と視点が変わるのが不思議な感じでおもしろいです。
十歳から始まって、ティーンエイジャーである頃を通り、大学を卒業するまでを描きます。
親友ジルの人生と交差させながら。
同時に、グレーテルの母フラニーとその従姉妹にして親友のマーゴウの関係をからめながら。


両親の離婚。父親の再婚。結婚生活の破たんの苦しみから立ち直れない母はやがて癌に。
ハーバード大学に進学が決まっていた優秀な兄はその繊細さ故に苦しみ麻薬におぼれていく。
・・・ ・・・
と、まだまだ続く、グレーテルの十代に起こった出来事を次々に列挙すれば、なんという過酷な青春期だろう・・・と思う。
だけど、物語はちっともウェットじゃないのだ。不思議に乾いています。そして、そこはかとないユーモアも、薫りもある。
各短編の読後感は清涼です。何も解決しないのに。好転の兆しさえないのに。


グレーテルの兄ジェイソンが、相次ぐ不運のうちに身を持ち崩していくのは痛々しかった。
真っ直ぐ伸びていくにはあまりに彼は繊細すぎました。
それなら、サバイバルしたグレーテルは?ずぶといだろうか? 確かに彼女は意志が強いと思う。行動力もあると思う。
だけど、それ以上に思うのは、「繊細」と言う以上に「繊細」で、感受性豊かな人だ、ということ。


美しくて幻想的で、ふわんふわんと宙空を漂うような軽くてとらえどころのないユーモアが、この不幸のまわりにたくさん飛びまわっている。
そして、それを感じて微笑むことができるのは、「繊細さ」を超えて、もっと繊細な感受性の持ち主のように思う。グレーテルのような。


印象に残っているのは、
『赤いバラ』でのデニスン夫人との共感。
『死者とともに』では父の家の台所で彼女が見たものをそのまま受け入れるゆとり。
彼女たちが目を見かわし、微笑みかわしたこと。
『グレーテル』は、『ヘンゼルとグレーテル』を下敷にしていますが、
現代のグレーテルが森の中に撒いてきたものに思わず、ふふ、と微笑んでしまいます。
それらが暗い森のなかで美しく光を放って彼らの道を照らしている光景を思い浮かべて、幻想的な美しさに、はっとしたりします。


そして、一番最後の短編『ローカル・ガールズ』のなかで、グレーテルとジルが、最近この町で自殺した二人の少女の話をするところ。
この少女たちは、グレーテルと親友ジルの少女時代を思い出させます。
疾風怒濤の日々を泳ぎきったグレーテルたちと、溺れてしまった少女たちとでは、何が同じで何が違っていたのだろう。


「わたしたち誰もがもつ同じ悩みよ」とグレーテルとジルは話します。(ジルもまた容易じゃない青春期を経てここにいます)
あまりに過酷に思えたし、時にはあまりにもったいなくて
人生を誤ったのではないの?と詰問したくなるような出来事が続いたグレーテルとジルの青春期だったけれど、
そうかそんなふうに「誰もがもつ同じ悩み」といえる日も来るのか。
グレーテルの母フラニーと親友(従姉妹)マーゴウの二人もそうだった。
彼女たちもまた「誰もがもつ同じ悩み」を戦っていたのでした。
そして、「少し待てばよかったのよ」と言う。
待つ。
自殺した少女たちと、生きて大人になったグレーテルたちとの違いはそれだけ。辛くて何もできなければ、ただじっと「待つ」。
何を待つのかわからなくても、ただ「待つ」。


大人になったグレーテルとジルの目の前には、今、ジルの子どもたちが遊ぶ。
グレーテルとジルもこんな時代があったはずだ。
ラニーとマーゴウにも。そして自殺した二人の少女にも。幼い子どもたちが、いろいろな人たちに重なっていきます。
そして、気づくのです。彼女たちはいつの間にか少女時代を抜けていることに。
辛い少女時代だったはずなのに、なぜか懐かしい、名残惜しい、と振り返ってしまいます。
まだ人生が始まってもいないこの小さな子どもたちもまた、親たちと同じ苦しみの中に入っていくのだろう。
だけど、いいこともあるのだ。
もし、周りを見回す余裕があるなら、案外美しい風景も見える。生きていくことはそんなに悪いことじゃない、と思うくらいの。