卵をめぐる祖父の戦争

卵をめぐる祖父の戦争 ((ハヤカワ・ポケット・ミステリ1838))卵をめぐる祖父の戦争
ディヴィッド・べニオフ
田口俊樹 訳
ハヤカワ・ポケット・ミステリ


ドイツに惨敗を続ける第二次大戦下のソ連
レニングラードも、空爆を受けていた。
市中の人々は、自国の秘密警察を恐れ、空爆を恐れ、飢餓に苦しみ、犬猫はもとよりネズミさえ・・・食べつくしていた。
もっとひどいことも実際に起こっていたらしい。
人々は骨と皮ばかりで、次々に飢えのために死んでいく。
そんな市中で、二人の若者が、一週間のあいだに一ダースの卵を探し出そうとしている。
卵なんて、どこをさがしてもあるわけないじゃないか。肉なんて、ネズミの肉さえ残っていないのに。
ジャガイモの皮や、砂糖工場あとの砂(舐めると甘い)が闇市で一瓶300ルーブルで売られているという時代なのに。


おもしろい本だという評判だったので、手にとりました。本当に、おもしろかったです。
だけど、途中で、何度も投げ出しそうになりました。
まだ半分くらいしか読んでいないのに、次々に出くわすこの酷い場面・・・猟奇的な場面・・・
この先、こんなショッキングな場面にあと何回お目にかかるのだろうか。どんなにおもしろくても、耐えられないぞ、と思って。
だけど、現実に、こんなこと(もしかしたらもっと恐ろしいこと)が起きていたんですよね、きっと。


読むのをやめなかったのは、やっぱり面白かったから。
まず、作者を思わせる作家が祖父に戦争の話を聞かせてくれ、と尋ねます。
祖父母の性格、暮らし向きが、ざっと語られたあと、祖父の語る物語になるのですが・・・
最後まで読むと、次々にさりげなく語られていた現在と過去とがすっすっと繋がっていく面白さはたまりませんでした。
(ことに最後の一文のしゃれていること!)


登場人物の性格がいきいきしていること、魅力的なこと。
ことに語り手レフ(17歳)と相棒コーリャ(元兵士)。
不器用で実直なレフと、口から先にうまれたかと思うような能天気でやたら魅力的なコーリャのコンビ
(・・・と書いた瞬間、ああ、ちがうな、と思う。この二人の性格、ちょっと言葉で表現するのは難しい)
下ネタだらけの二人のやりとり(というよりコーリャの一人語りとレフの言葉少ないつっこみ?)、文学への熱い思い・・・


忘れられない数々の見せ場。
何よりも「卵」・・・見つけることができるのかどうか。見つけられたとしたら、それを本当に本来の目的通りに使うのか。
見つけられない(見つけない)としたら、その後どうするのか。
誠実なのかただの考えなしなのかわからないコーリャのミスリード(そのおかげで被る危険と、そのたびに深まる絆)、
ことに、一計(?)、運命を賭けたチェスにはどきどきしつつ、夢中になった。
地獄を這うような日々の中でみつけた初恋の甘美さ、不器用さもほほえましかった。
物語としての読み応えたっぷりで、ただもう楽しめたのでした。


しかし、その一方で、戦争とは、人をヒトではないものに変えてしまう。
レフたちが出会ったのは多くの化けものたちだった。
敵国にほとんど負けかけているというのに、国民が飢えてばたばた死んでいるというのに、
軍部の上級将校は、自分の娘の結婚式に、ケーキを焼くための卵が必要だ、とぬかす。こういう気持ちの悪いばけものもいる。
戦争とはなんてばかばかしい茶番なんだろう。
敵も味方も、気がふれたばけもの。
そのばけものにいいように突き動かされて大勢の生活が犠牲にされ、大勢の命が奪われていく。
人はめちゃくちゃなドタバタ喜劇のために人生をささげさせられているのだ。
喜劇役者たちは、わかっていながら、ひたすらに自分の役割を演じるしかないのだ。
なんのための舞台なのだ、これは。
ただ狂気をどれだけ巧みに演じるか、ということだけなのだろうか。それも、周りは見えない。
他の役者は見えない。自分の役割だけをひたすらに演じきる。


銃殺(罪のない市民がありえないような罪状で、つぎつぎに秘密警察に殺されていた)をまぬがれた17歳のレフと脱走兵のコーリャは、
罪を許されるかわりに、一週間以内に、卵を一ダース探し出して持ってくるように命じられる。


この不気味にシュールな世界に、
二人の青年の会話も行動もやたら喜劇っぽいのに(卑猥な話ばかり)、軽口ばかりなのに、
ナイーブで傷つきやすい心が垣間見え始める。
責任感、信頼、そして、将来への夢と不安、怖れ・・・
血と泥と汗にまみれ、糞尿にまみれ、常に飢えと恐怖のなかにあって、友情が本人たちにも知らないうちに育っていく。
嘘と裏切りだらけの世界で。
あまりに馬鹿馬鹿しく、皮肉な茶番劇の中で、光る若者たちの愚直さ誠実さが、印象的だった。
ともに旅し、ともに語り合い笑う彼らの顔が心に残ります。