文士厨房に入る

文士厨房に入る文士厨房に入る
ジュリアン・バーンズ
堤けいこ 訳
みすず書房


料理エッセイといえばいいでしょうか。
タイトル『文士厨房に入る』、わざわざ、『文士』と断るところが味噌かな。
つまり、一流レストランのシェフや料理研究家では、もちろんなくて、
ふだん、自分の仕事として家庭のなかで料理を担当するプロ(?)でもない、ということ。
文士、というからには、文筆業のプロではありますが、料理に限って言えば、そうではないですよ〜と言うことだと思います。
それでも、厨房に立つことが好き、料理が好き。嫌ならやらなくてもいい門外漢(?)の気楽さから、ますますのめりこむ料理の世界。
ウィットに富んだ文章に、気楽にクスクス笑いながら読みつつ、ときどき、こっそりメモをとりたいあれこれ。
うんうんと頷きつつ読んだ17章。
これでもう終わりなの? もうちょっと続けてもいいんじゃないですか? 続はないの、続は?


マチュアにはアマチュアの誇りがあるし、アマチュアの極みもあるでしょう。
それをわざわざプロのまねごとをするものではないのですね。
つまりレストランで食べたおいしいものはレストランの味。
そのシェフのレシピを手にいれたからといって、決して同じ味にはならないだろう。
そもそも、プロではないのだから、
そして、料理する人と食べる人が明確に分かれているレストランを、家庭に持ち込むことなんてできないんだから、
「なにもこんなことをしなくてもいいのだ」とさっさと見切りをつけて、家庭での極上を目指したいと思います。
そうです。成功したことなんてありませんって。
でも・・・でも・・・性懲りもなく思うのです。
外で食べたおいしい味を再現できないかな、わたしにも、って。
(だけど、思わぬ余禄もありますよ、先生。失敗して似て非なるものができたとしても、それが案外おいしかったりして。ごく稀ですけど。)


古今東西の料理本の奇奇怪怪に関する話はどれもおもしろかったです。
写真入りの料理本の場合、文章による作り方(分量・時間)をそのままに踏襲した場合、
写真のとおりにはならない(「誰かが嘘をついていたわけである」と著者)、同感です。
(こちら作り手に問題がある場合も多々あるけど)
失敗しかけた料理のあちらこちら、自己流にアレンジして、
結果、なんとなーく、いつもと変わり映えしない味と形の料理になってしまったことは何度もありました。
威張れませんって。わたしにはセンスがない、ということで、しょんぼり。
(我が家の最近の会話→「この筑前煮、味が変じゃない?」「いえ、これはスパイシー・チキンのワイン蒸しというものです!」)


といいつつ、様々な料理に果敢に挑戦して、失敗して、成功して、
その間、さまざまな蘊蓄をおりまぜつつ、いろいろなお客さんに供すことを楽しみ
(お客さんも三通りだそうです。「(1)好きな客、(2)交わらざるをえない客、(3)ひどく嫌いな客」、これも同感です〜)
自由に屈託なく、厨房を楽しむ。
楽しみつつ、料理は、文学に勝るとも劣らない芸術であること、料理の精神的な使命について、自信を持って語る。
数々の詩人や文化人の名言を引きながら、文学が精神の健康にかかわることなら、料理もまたそうなのだ、ということ。
タイトル『文士厨房に入る』のわざわざ『文士』と断る意味、自信の表れでもあったと思います。
くすくす笑いながらも、実はわりとまじめに学んでしまったかも。
いいこといっぱい聞いたな、るんるん
今夜の夕飯、何にしようかなあ、と思ったら、思いだしましょう。わたしはなんという気高い事業に従事しているのでしょう。


ところで、この本に出てきたさまざまな料理名、食材名、イギリスでは、普通なのでしょうか。
わたしには味どころか、形さえも思い描けないものが多かったのですが。
料理名(一例)・・・カレッジ・プディング、大麦のクリームスープ、自家製詰め物パスタ、チョコレート・ネメシス、ジェルサレム・アンティチョーク・・・などなど。
食材名(一例)・・・セルリアック(根用セロリ)、パースニップ(アメリカボウフウの根)、ターニップ、ボルチーニ茸、ビートルート、マールラビ・・・などなど。