斜陽

斜陽 (新潮文庫)斜陽
太宰治
新潮文庫


直治が言った。

爵位があるから、貴族というわけにはいかないんだぜ。爵位が無くても、天爵というものを持っている立派な貴族のひともあるし、おれたちのように爵位だけは持っていても、貴族どころか賤民にちかいのもいる
お母さまが萩のしげみの奥に入って、しゃがみもせずにおしっこをする。
と、わたしなんかが書いたら、何だ、そりゃ?なのだけれど、
太宰治のこの部分の描写、おしっこなのに、この爛漫な優美さ、品の良いかわいらしさ。
「最後の貴婦人」であるお母さまの貴婦人さに、はっとなってしまう。
わたしが、貴婦人という言葉から連想するのは何かいかにも高貴で豪華な感じのもの・・・
ああ、そういう単純な連想が、「爵位があるから(もしもあったとしても)、
貴族というわけにはいかない」とか「貴族どころか賤民」といわれるような下品さの表れなのかもしれない。
「おしっこ」という言葉に下品な連想をするほうが下品だし、照れる心境も下品な気がした。
その優雅さは、常識やマナーなどを超えてあるもの、
生まれつき、生まれる前から身にも心根にも備わっているものなんだな、と思う。
と、「おしっこ」「おしっこ」としつこいけど、この数行のシーン、ものすごく鮮烈でした。
「おしっこ」で、しかも、思いたっての草むらのそれで、貴婦人とはどんなもんか、ということをこんなにも的確に表現するなんて。
だれがこんなふうに書こうと思うだろう。
ああ、叶わない。どうしようもない。真に貴婦人。最後の貴婦人。
そういうお母さまを中央に配して、その周りに星のように姉と弟がまわっているような物語でした。


直治の最後の手紙の、まるで身を切り刻むような文章の凄みには言葉もないのですが、
それでも・・・貴族であること、自分の生まれ育った根を否定して否定しまくるその言葉に彼の純粋な憧れを感じてしまう。
彼は貴族を否定しているのではなくて、
爵位だけは持っていても、貴族どころか賤民」でしかない自分、
どうあがいてもそれでしかない自分の持って生まれた嘘くささが厭でならなかったのだろう。
あのお母さまのそばにいればいるほど、自分の俗っぽさがたまらなかったのかもしれない。
いっそ、平民であったらよかったのに、爵位も育ちも、いつまでもついてくる。
財産も何もかもなくしてもなお、それは残るのです。忘れることなどできない。

それから、上原とかず子。
自分にも世間にもとっくの昔に絶望し、滅びたいと望み、「ギロチンギロチン、シュルシュルシュ」と、ただ生き延びている上原。
直治の手紙の言葉で上原は否定され、
かず子に三つのM・Cの名(ことに一番最後の)を贈られ、
そのようにして、自分を貶められて、貶められることを甘んじて受けながら、その言葉に暗く酔っているようにも思う。
これは作者自身の少しいびつな自画像でしょうか。
わざと自分を虐めるかのような言葉・・・
その一方で、かず子は、やさしいかず子の形をした自分の胸に、小さな蛇がいることを意識している。
いいえ、むしろ蛇そのもの。
優しい姿、優しい言葉で、母を、そして弟をも、少しずつ少しずつ殺していたのは、
もしかしたら、蛇であるかず子自身だったのではないかと思えてくる。
愛し、憧れて、その遠さを憎み、食い殺してしまうかもしれない蛇・・・
上原も直治もかず子もみんなそれぞれ違った人間に見えるけれど、ほんとうはとてもよく似ている、
というより、一人の人間のあっちの側面、こっちの側面にすぎない、と思うのです。
同じものに憧れて焦がれて、でもそれは決して手に届かないと絶望してぐるぐると衛星のようにまわっている。


読みながら、感情移入できるような人物はこの本のなかにひとりもいないことに気がつきました。
というより、ここまで、突き詰めて、自分を殺すほどにまで、純粋に自分自身と向かい合おうとした人たちに、ぼうっとなってしまう。
この世の幸福を望む私からは、はるかに隔たった世界でした。
最初のほうで、天爵、と直治は言った、
その天爵への憧れ・・・そういうものを知ってしまって、
それを求めつつそれは自分には決して手に入れることができない、と知ってしまったら、・・・
僕は貴族です、という言葉が突き刺さります。決してなりえなかった真の貴人・・・


外からみたら、堕落かもしれない。
旧家も地に落ちた、最後に残った子が二人、あのようになり、ああ、御先祖も浮かばれまい、と思う。
だけど、それこそ、見た目にすぎないのです。
そう、もっと楽な生き方もあった。世間並に「幸福」にもなれたはず。
でも、そういうものに背を向けた人たちであった。
こういう状況で世間並の「幸福」になることのほうが、
むしろ(阿片中毒になることや、酒におぼれること、誰かの愛人になること)よりも、精神的には堕落であったかもしれない。
死んでしまうことよりも、もっと暗い死であったのかもしれない。

>幸福感というものは、悲哀の底に沈んで、幽かに光っている砂金のようなものではなかろうか
この凄み、美しさ。
一つの滅びだろうか。滅びゆくものの美しさだろうか。そうとも言い切れないのです。
ほんとうは、滅びに見えて滅びではないのかもしれない。
パンドラの匣 』に似た光を感じます。それは最後に思いがけず知る、もうひとつの命の存在のせいです。