ノエルカ

ノエルカノエルカ
マウゴジャタ・ムシェロヴィチ
田村和子 訳
未知谷


イェジツェ物語のシリーズもこれでおしまい。最後に取っておいたクリスマスの物語を読みました。
1991年12月24日。
『クレスカ15歳 冬の終りに』と『金曜日うまれの子』の間の物語です。
ボレイコ家のガブリシャはひとりで二人の娘を育てているし、イーダは明日結婚式を挙げるのです。
アウレリアはこのとき陰りのある無口な少女です。


クリスマスイブのただ一日の物語。
エルカはトメクに連れられて、サンタクロースと天使の扮装をして、イェジツェ町のさまざまな家庭を訪問するのです。
トメク・・・『嘘つき娘』のアニェラの小さないとこ、やんちゃなトムチョは、こんなに素敵な若者に成長していたのでした。

>・・・エルカの状況描写は必ずしも正確ではない。しかし、エルカがさらに思考を進める上でそんな事は妨げにはならなかった。
実際「妨げにならない」ことが問題なのだけれど。↑
エルカの「胸には重石が詰まって」います。
その重さを考えないようにしているけれど、重石はネガティブに働いています。
まず、物事を正確に見られない。
そして、正確ではない見方のうえでどんどん思考を進めていっても、その先にまともな結論を見出すことは決してできないでしょう。
でもそれは、本人にはわからないのですよね。
それ、すごくわかる、思い当たることあるなあ、と寒々と自嘲してしまいます。


トメクとエルカの回る家々は、本当にさまざまで、さまざまなクリスマスイブを迎えていましたが、
なかでも印象的なのが、そして、おなじみなのがボレイコ家です。
トメクはこの家族についてこんなふうに言います。
彼は、「幸せというのは人間にとって本来的な状況であり、幸せになるためには何もしなくてもいい」
というデ・メロの『覚醒』の中の言葉を引いて、

>幸せを持っていることを感じるためには、何かを捨てなければならない。幻想、そしてレッテルを。ここの家族(ボレイコ家の人たち)には・・・それができる。
その日、ボレイコ家の小さなプィザは、毛皮のコートの年配女性に教会を追いだされたジプシーの子どもたちを自宅に招きます。
「教会は誰にとっても自分の家」と言って。
トメクの言葉もプィザの言葉もボレイコ家そのもので、たぶん、一つの意味では「クリスマス」の理想の姿なのかもしれない、と思いました。
ひとりひとりが、開かれた「家」であるのです。


エルカは、ボレイコ家の平和に浸りながら、自分が育った家の寂しさに初めて思いいたるのですが、
でも、そうじゃないでしょう。
父と祖父と大伯父にエルカは大切に育てられたのです。
このシリーズ、どの本もそうですが、
大きな家族(親族)が寄り添いあってあたりまえのように助け合い、みんなで子どもを大切に育てているのです。
それは、家族だけではなくて、家を訪れた人誰に対しても開かれていること。
何度も何度もそのことを確認し、何度も何度も感動したのでした。


この日、エルカだけではなくて、
いろいろな意味で、いろいろな形・いろいろな色・いろいろな重さの「重石」を胸に抱えている人たちがいるにちがいない。
この本にでてきただけでも、
アウレリアはまだ問題を抱えて口数少ない(でも、この本のあとに『金曜日うまれの子』と言う本があることをわたしは知っている!)
レルイカ一家の不安が解消されますように。
レゴとミニカーをもらったあの子がどうか元気になりますように。


重たいものを抱えたまま天使になってサンタとともに各戸を回るクリスマス。
といっても決して夢ゆめしすぎるわけでもなく。
そして、ボレイコ家のおおらかな温かさが、たくさんの重石を溶かすように広がっていくクリスマスです。
それは、読んでいるわたしのなかにまで沁み込んでくる。幸福がここにあることを確認する。


そうそうポーランドのクリスマスの食卓の様々なごちそうがおいしそう。
ピェロギ。ピェルニク。ビゴス。想像はするのですが、実際はどんなものなんでしょうね。
なかでも興味津津なのがオプワテク。
これはウェーハウスのような薄いお菓子で、一枚をだれかと分け合って願い事を言いながら食べるものらしいです。
クリスマスの風習のようです。
その国ならではのクリスマスの習わしは、それぞれに、美しく、趣があり、読むのが楽しいです。