市立第二中学校2年C組

市立第二中学校2年C組市立第二中学校2年C組
椰月美智子
講談社


10月19日月曜日という日が、六時四十七分から始まって、十八時五十六分まで。その間を適当に37の時間に分ける。
そして、その時間時間に、市立第二中学校2年C組の生徒たちを一人ずつ順に取り出して、スポットライトをあてる。
その短い時間の彼なり彼女なりの行動や思いなどが寸劇のように現れます。
1番最初に教室の席順表、それから時間割表が掲げられていて、わたしは読みながら、何度も振り返ってここを参照にしました。
ああ、この席に座っている子の話なんだ、
前の席のあの子はさっき出てきた子だ、斜め後ろにはちょっと気になるあの子がいるし、
まだ出てこない隣の子や後ろの子の話もいずれ読めるだろう、と。
そして、時間割と、今の時間を比べながら、今は休み時間だね、次は何の時間だね、もうすぐ下校かな、と思うのです。


切り取られた一瞬で、この時間の前後に、その子に本当は何があったのか、わからないことも多いのですが、38人。
当たり前のことだけれど、わたしたちが誰かのことを「あの人はこういう人だな」と思う、
その見かたって、本当にわずかなわずかな一面でしかないこと、
または、自分では自分のことをこんな人間だと思っていたのに(そう思われているんじゃないかと思っていたのに)
他人は違うふうに見ていたこと・・・などなどを改めて感じるのです。


傍から見たら、重さが違う今を生きる子どもたちの時間ですが、軽重に関わりなく、ほぼ同質の小さなドラマになって過ぎていきます。
今、いじめに耐えてやっと立っていることも、
今、髪型が決まらないから学校に行くのが嫌になっちゃうことも、
それぞれの子にとっては、同じくらいの大問題なのだ。人の気持ちなど構っちゃいられないくらい。
傍から見たら、苦しみや不安の大きさや深刻さは違うはずだと思うけれど、本人にとっては、どれも懸命な今なのだろう。
利己的というよりも不器用で、いっぱいいっぱいな感じがする。


他の子の他の時間を読みながら、特に気になるあの子やこの子のことを考えている。
この時間、あの子はどうしているだろう。何を考えているだろう。
あしたはいったいどうするつもりなんだろうか、どうなるんだろうか・・・
どの子も今日のこの瞬間にいろいろなドラマがあって、そしてここにいる。
でも、ずっとここにいるわけじゃない。これからどこかにむかっていく。
保険室の矢吹先生が、こんなことを言っています。

「・・・あのさ、もっともっと世界は広くて、いくらでも手足を伸ばせるのよ。そんな世界、まだ知らないでしょ?でもいいわよ。これから先が明るいこと知ってれば、なんでもへっちゃらよ・・・」
・・・重たいものを抱えている子はたぶんとことん重たいのだろう、と思うのです。
そして、この本には、その子その子の現状は書かれていますが、解決の見通しは書かれていないし、
それどころか、今後もっと泥沼に嵌っていくかもしれないとさえ思わされます。
それなのに、わたしは、不思議に明るい気持ちで先行きの(はるかな先行きの)ハッピーエンドを予感しています。
お気楽な言い方かもしれないけれど、一生続く不安定さではない、どの子も遅かれ早かれ必ず抜けていくのだと思うからです。
ひとりひとりが危なっかしくて、壊れそうで、
そうかと思うと、ちょっとしたきっかけ次第で、どうにでも変りそうに柔らかくて、それが中学二年生なのだろう、と思うからです。


座席表を見れば教卓を前にして38の机が並んでいる。38の名まえが書いてある。
ここに38の生徒が座る。
傍からぼんやりとみたら、同じ制服に身を包んだ中学生たちの一群れでしかない。
でもひとりひとりがみんな違う、ひとりひとりがそれぞれに自分たちの今を生きている。
ただ素描のような(小さなドラマはあるけれど)生徒たちの寸切りの一日を追いながら、
集団が見え、集団から個人が見え、そして、ひとりひとりが、他人じゃないような気がしてくる。
大人で子どもで、どちらでもありどちらでもなく、自分なりに自分らしく生きている。
泥臭くても惨めでも、だるくて暗くて、もやもやしていてもぴりぴりしていても、羨ましいくらいに鋭く輝いている。
彼らを取り囲む大人(教師)たちが愚鈍に思えるくらいに。