いちばんここに似合う人

いちばんここに似合う人 (新潮クレスト・ブックス)いちばんここに似合う人
ミランダ・ジュライ
岸本佐知子 訳
新潮クレスト・ブックス


英国ウィリアム王子の婚約のニュースが、テレビから流れてきたときはびっくりした。
16の短編集が入った『いちばんここに似合う人』のなかの、三番目の物語『マジェスティ』をちょうど読んでいたときだったんだもの。
この物語のなかで、主人公の女性は、ウィリアム王子とどうにかなる(笑)ことを夢想しているところだったのだ。
テレビの中の人(笑)がこっちを見ていて、話をあわせているのかと思った。


それにしても16。
どれも違う性格の主人公、違った情景、違った出来事が描かれているのに、
この16の物語は、一つの物語を語っているように思えて仕方がありません。
連作短編というのとは違います。
一つの個体をいろいろな人があらゆる角度から眺めて、それがどんなふうに見えるか、てんでに語っている、
というようなそんな短編集のように感じました。


繰り返し現れるのは、なんともいえない寂しさ。
それも一人でいる寂しさではなくて、大切な誰かとぴったり寄り添っているときに感じる孤独感。
これは、ひとりのときのさびしさより数倍さびしいのだと感じます。


そのさびしさは、
「椅子は人間が座るためにあるものだけれど、自分が本当に人間なのか、わからなくなってしまう」(『ロマンスだった』)ほどのとらえどころのなさ。


また、たとえば、『妹』の、決して会うことのない恋人。
彼女は実在しないことをほんとはとっくに知っているはず。
知っているけど知らないことにしたい、その美しいイメージにしがみつきたい。
虚構の世界の彼女のほうが現実よりもずっとリアルに感じるほどの、現実の生活のとことんまでの空虚さ。


それは、『階段の男』の、階段を上ってくる殺人鬼を待ちながら、
見知らぬ男に殺される自分のほうが惰性で生きる平和よりずっとリアルだと感じることにも似ている。
逆説みたいだけれど、「生きる」ということは一体何なのだろう。


『水泳チーム』は、水泳のインストラクターではないインストラクターと三人の高齢者たちの思い出。
海もプールもない町のマンションの一室で水泳の練習をする、というのはもう傍から見たら、すばらしい喜劇なのです。
ことこまかに描写されるその情景はくっきりと目に浮かぶ。コミカルでへんてこな世界。
だけどみんなまじめなのだ。
まじめにこんな馬鹿らしい特訓を続けるのは、なぜなのか。
ばらばらな一人と一人と一人と・・・が、ここで束の間、ひとつの目標に収束する。
だけど、束の間にすぎない。意味なんかないのだ。
それをみんな知っているのだ。すぐに、たぶん明日にでも何もかもが消え去ってしまう。
見た目のおかしみと、ちっともおかしくない悲しい愛おしさが好き。
現実離れしたこの世界が、無味乾燥な現実よりもずっと現実であり、生き生きとしていることが。


どの物語の主人公(語り手たち)も、さびしいのですが、さびしさでは人は死なないのです(笑) 
ただベッドにもぐりこんでふて寝するとか、めちゃくちゃな格好していきなり飛び込んだアダルトなお店で働き始めるとか、
何をどうやってももうどうにもならない、もうおしまいだ、と思ったとしても、ぐちゃぐちゃになっても、生きているんだなあ・・・
明るくなるわけではないし、盛り上がるわけでもない。かといってこれ以上状況が悪くなるわけでもなし。
ずっと続く停滞のどつぼに置いていかれてしまうのですが、
不思議、「それでも生きていけるんだ」という感じは、(それも、なるべくみっともなく、ね)妙に救われる気がするのです。