スティル・ライフ

スティル・ライフ (中公文庫)スティル・ライフ
池澤夏樹
中公文庫


スティル・ライフ」と「ヤー・チャイカ」の二篇が収録されています。どちらもとても好きです。
二作(別の物語ではあるけれど)、分けられないような気がして、ごちゃごちゃの感想になってしまいます。
文章の美しさ、語られる世界の美しさ、静けさ・・・
夜一人で、家族の帰りを待ちながら読んでいると、不思議な空間にすっぽりと浮かんでいるような気がしてくる。


目の前のコップの水を眺めながら、
宇宙から降ってくる微粒子が水の原子核とうまく衝突して出る光、チェレンコフ光を見ることができるのではないか、
一万年に一度くらいの確率のそれが、今かもしれない、と期待する。
あてにしないけど、希望する。
その小さな希望をこめて、コップをみつめる話から始まる。
それだけで、この本きっと好きだと思わずにはいられませんでした。


雪の情景。
「雪が降るのではない。雪片に満たされた宇宙を、ぼくを乗せたこの宇宙の方が上へ上へと昇っていくのだ」という不思議な錯覚は、
不思議でしかも美しくて、ふとレイチェル・カーソンの『われらをめぐる海』のなかの「永い雪降り」の章を思い出した。
それは科学者が科学という名で書いた詩のようでした。


夕方の高速道路を眠気を払いながら運転し、サービスエリアの駐車場に滑り込んだとき、
「ずらりとならんだライトは屋外の空に整列した宇宙船のように見えた。
今にも一機、また一機と、遠方の一点に向けて滑らかに飛翔を始めそうだ」と感じる、その感覚が、壮大でロマンチックだと思う。


「ヤー・チャイカ(=わたしはかもめ)」と宇宙から地球に呼びかけたかの女性宇宙飛行士に書いた手紙はとうとう出さなかったという。
長い時間をかけて書いた、そのことの方が大切だったという。
その理由を語ることばに、私は、いきなり、遠い宇宙から地球を俯瞰している気持ちにさせられた。
静かな見守りのベールに覆われた地球が見えた、と思った。
今までそんなふうに考えたことはなかった、感じたこともなかったのに、今、そういう感じを味わっている。


はるか広大な宇宙を振り仰ぐことも、コップの中の微粒子の奇跡を待つことも、同じ心の同じ憧れがなせる技。
どちらも星の世界の物語でしょう。


主人公たちは、日々、会社や工場できちんきちんと仕事をする。仕事をしながら、夢を見る。
そして、ふいに非日常の何かが起こる。
それは秘密めいた株取り引きや、もしかしたらほんもののスパイになることもできるのではないかという誘惑。
主人公は、何かもかもを失うことと引き換えにそういう道を選ぶことができる、という選択肢を結構真面目に考えるのです。(実際にやってみるか、やめるか、ということはもしかしたら五十歩百歩なのかもしれない)
一見、宇宙や微粒子とは遠い話なのですが、
こういう胡散臭いことを真面目に考えてしまう気持ちや、誘惑に乗りたいと感じる気持ちは、
もしかしたら、宇宙や微粒子とつながっていないともいえないのかもしれません。
どこにも、何にも、しばられない。土地にも家族にも、祖先や子孫にも、そして、善悪の基準にも。
ただあるのはたぶん、彼らの中の星が示すルールだけ。そういう状況で、こんな話を考える・・・
こういうところで、にわかに現実に立ち戻って「危ない、危ない」という私には、納得はできないけど、
そういう生き方もありかもしれないとは思うのです。だれにも理解されない(これも大切)ところで、美しいのかもしれない。


「一万年くらい」まえには、「心が星に直結していて、そういう遠い世界と目前の狩猟的現実が精神の中で併存していた」と、
『スティルライフ』のなかで主人公は見えない友と想像の会話を交わします。
『ヤー・チャイカ』の少女は、恐竜にのった「わたし」を見送る。さびしいけれど、清々しくもあるのです。


「星」の世界と「狩猟的現実」を併存させることができないとしても、
かつて「一万年前」にはそれができたこと、自分はそれを知っている、ということ。
それが大切なことなんじゃないのだろうか。
そうしたら、ふいに目の前でチェレンコ光が見えたら、きっと、はずさないだろうし、
ときには、雪のなかで上昇することもできるし、遠い宇宙の声を感じることもあるかもしれない。
そう思って暮らしていけるなら、恐竜に乗った「わたし」を静かに見送ることができるように思う。
現在の暮らしは星が遠い。そして、毎日があまりに忙しすぎます。
空に星をさがせないとき、自分のなかの星をさがす。そこに星があることをちゃんと知っていたい。