風の靴(再再読)

風の靴風の靴
朽木祥
講談社


本の扉を開いた瞬間から、まぶしい光の照り返しに魅了されて、ふつふつと嬉しさがこみ上げてきました。
物語を知っているから。これを読んだときにどんな気持ちになるかを知っているから。
だから、扉を開いただけで、「もう、これだけで充分かも!」と思っている。
でも、それだから、また読む。ゆっくりゆっくり、光を浴びるように、味わう。
新しい本に出会う楽しみとは別の、好きな本を読みなおすことの喜びです。
いつまでも読み終わりたくなくて、何度でも読み返したい本・・・至福だ。


(初読の感想はこちら。再読の感想はこちら。)


なぜ、この本にこんなに惹かれるのでしょう。読めば読むほど、「好き」の気持ちが強くなっていくこの本。
ひとつには、海生が持っているものが、(形はちがっても)きっと私のなかにもある、ということを思い出させてくれるからです。
そして、ただ単純に、子どもたちのきらめく夏の照り返しを浴びるのがうれしいし、まぶしいからです。


きらきらきらきら。
輝くような夏の日。ため息が出るような素晴らしい三日間の物語。
だけど、手放しの喜びではない。(手放しに嬉しいだけの本だったら、こんなに何度も読みたい、とは思わなかったでしょう)


海生に大きな影響を与えたおじいちゃん。
物語の中で、何度も繰り返し現れるおじいちゃんは、実際には、ここにいません。
それなのに、なんて確かで、なんて大きな存在感だろう。
そして、そう思えば思うほどに、やっぱりいないんだ、ということに愕然としてしまう。なんでいないのだろう、と。
その喪失感が、沁みるように広がってくる。
『かはたれ』にも『たそかれ』にも、『引き出しのなかの家』にも、
主人公たちを深く愛し、大きな影響力を持った、とっても魅力的な人たちが出てきました。
そして、その人たちは、必ず、今はここにいないのです。
大切な人は、いつまでも、傍らにいてくれるわけではないです。
だけど、欠けた寂しさを抱えながらも、大切な人をこんなに豊かに美しく思いだせる主人公たち。
だれか(それもとびきり素敵なだれか・・・自分にとって、というだけでもいい)の大切な自分だったのだ、
無条件に肯定されていたのだ、という思い出は、
この先の自信にもなるし、一歩を踏み出す勇気にもなるにちがいない。
何よりも大きな憧れでありつづける。


それと同時に、海生のおとうさんも、『かはたれ』の麻のおとうさんも、
決して器用ではないけれど、ここぞというときには、真剣に誠実に、子どもと顔を突き合わせる。
散文的だったり、事務的だったり、ほんとに不器用なんだけど、そういう存在も、子どもにとっては財産だっていつか気がつけばいい。


「今日が、ずーっと終わらなければいいのに。」 キャンプファイアの時に八千穂が言った言葉です。
同じ日の夜、海生は、眠りにおちていきながら、今日の日を思い出しながら、「きっといつまでも忘れないだろう」と思うのです。
「忘れない」と思ったときには、すでに思い出になっている。
幸せな時間は去っていく。消えてしまう。


永遠に続くものはない。だから、その時間がかえがえがないし、より一層輝かしいのでしょう。
続かないことを知り、忘れないようにしよう、と思うとき、消えていく寂しさが補色のようになって、
その風景も、人も、このうえなく美しい輝きを帯びるのかもしれない。
そんな忘れたくない人や出来事・風景をたくさん持っていたら、幸せです。
(わたしにとってはこの本がそういう宝物の一つです)