熊の敷石

熊の敷石 (講談社文庫)熊の敷石
堀江敏幸
講談社文庫


はじまりは、不思議な夢でした。
薄暗い山の中で一夜を明かそうとしたら、
「地面ぜんたいが巨大な黒い毛虫の絨毯みたいにざわざわうごめいて足もとをすくわれ」る。
「おびただしい数の熊が両の脚でたちあがったまま身体を寄せあいへしあい帯状に連なって山の奥へ移動する」その背中を
「私」は踏んでいたのだ、という。
最初、タイトルの「熊の敷石」はこの夢のことかな、と思って、
奇妙な柔らかな感触が、わたしの足の裏にまで伝わってくるようで、ぞくぞくしましたが・・・


フランスで、「私」は、久しぶりに古い友ヤンと会う。
実は、二人は「ペタンク」という、投てき競技を通して知り合ったのでした。
ヤンはユダヤ人で、父や祖父母を通してホロコーストの記憶を背負っている。
それは、身に覚えがないのに、知らない内にできて、いつまでも鈍く痛む古傷のようです。
決して大きな声で、そのことを痛い、ということはできないけれど、いつまでも残る何か。
まるで顔にとまった「蠅」のようではないか。
またヤンの家主カトリーヌにとっての息子のこともそうなのです。
彼が大切にしているぬいぐるみが「熊」というのも意味があるのでしょうか。


ホントは「熊の敷石」って、ラ・フォンテーヌの寓話のタイトルなのだそうです。
最初の「夢」の話とは似ても似つかないかなりシビアな寓話。それがわかるのは一番最後なのですが・・・
農夫の顔にとまった蠅を追おうとして、親友の熊が敷石を投げつけたために、蠅は逃げ、
敷石をぶつけられた農夫は死んでしまう、という話。「余計なお世話」という意味なのだそうです。
ここまで読み、初めて、そういうことだったのか、と思いいたったのでした。


敷石でも、ペタンクでもカマンベールでも、「投げる」やり方を間違えたら、取り返しのつかないことになってしまう。
そのぎりぎりのバランスの上での共感・・・


この物語にたびたび出てくる「投げる」話、「熊」の話。
そして、最初の紛らわしい夢と、寓話のいってかえるほど違うイメージのギャップ。
何も知らないのにわかったつもりになることから生まれる無理解。
人と人の微妙な距離感。人がその身に止めている消えることのない痛みは「蠅」


痛みと共感が、とても微妙な関係の中にあることを知って、妙にどきどきしたのでした。
読了後、そこはかとない悲しみが残りました。
だからどうなるものでもないし、どうしようとも思わない、
その悲しみをそのまま持ち続けていくのだよ、と告げられたような気がしました。