隣のアボリジニ

隣のアボリジニ 小さな町に暮らす先住民 (ちくま文庫)隣のアボリジニ 小さな町に暮らす先住民
上橋菜穂子
ちくま文庫


>ですから、この本は、「アボリジニ」は、こんなにひどいことをされてきたのだ。現在も、こんなひどい仕打ちを受けているのだ」というようなテーマでは書くまいと思っています。その視点だけに囚われていては見えないことが多すぎるからです。
との筆者の言葉通り、伝統的な暮らしから離れて、
オーストラリアの街のなかで、白人に混じって生活するアボリジニの人々の現在の生活・文化・伝統などが、
どのように受け継がれ、どのように消え、何が問題なのか、ということを、
筆者の知りあったアボリジニの人々とそのまわりの白人の人々の談話をたよりに、書いています。
何年も、何度もオーストラリアに渡り実地調査をされての文章には強い力を感じました。


確かに、その歴史をひも解けば、白人たちと接触したときから始まった厳しく残酷な過去があり、
その物語からは、アメリカのインディアンの物語を彷彿とさせられます。
そして、アメリカとオーストラリアで、異なった国の、異なった民族に対し、よく似た歴史を持っていることに驚きました。
で、日本の、和人によるアイヌの人たちに対する仕打ちも、同じだ、と思ったのでした。
たくさんの血が流され、迫害されたこともそうだけれど、
少数民族の言語や文化は有無を言わされずに奪われて、縁もゆかりもない言語・文化を頭から押しつけられること。
さんざん迫害されたあとで、神秘的な存在に祭り上げられ、彼らに知恵や癒しを望むなんて、
考えてみればふざけた話でもあると思うのです。
アボリジニの言語のひとつであるワジャリ語を流暢に話すリソース・ウーマン(伝統知識を保持し伝える人)ドリー・ロウに、
筆者がはじめて「ワジャリの文化を教えてほしい」と頼んだ時の、ドリーの返答にはこたえました。
「あなたはその代償にいくらくれるの」
アボリジニの本を書きたいと近寄ってくる人がいる。出来上がった本には、いっぱい誤りがある上に、著者は金を稼いでも、せっせと時間をかけて話をし、ネタをあげたアボリジニは豊かになることはないのよ」


上橋さんがオーストラリアを初めて訪れたとき、タクシーの運転手さんにこんなふうに言われます。
「でも、アボリジニの調査なら、北の方とか、沙漠の方がいいだろ。アボリジニの研究をするんなら本物がいる所に行かなくちゃ。
・・・おれも、彼らはすごく興味深い人々だと思うよ。彼らの描く絵なんて、なかなかすごいと思うしね。
・・・だけど、街にいる連中は、ありゃダメだね――クズだよ。やっかいごとの種だ。人種偏見だって言われそうだけど、これは本音だよ」
このタクシーの運転手さんだけではなく、
「先住民は遠くにありて思うもの、近くにいれば厄介者」というのが白人たちの本音だろうと、筆者は言います。


たくさんの白人たちが「よいアボリジニもいれば、悪いアボリジニもいる」と言っているし、
アボリジニもまた、「よい白人もいれば悪い白人もいる」と言っているのです。
白人のいう「良い・悪い」と、アボリジニのいう「良い・悪い」は意味がちがいます。
白人たちは自分たちの社会・文化・伝統・慣習(と、それに基づいた法)に従って、あたりまえに良い、悪いを使い分けているけれど、
それが、自分たちの「狭い」範囲でしか通用しない常識なのだ、ということが理解できません。
アボリジニには伝統があり、歴史があり、その社会のなかで文化も慣習も、育ってきています。
そして、そのなかでの善悪基準をきちんともっているのです。
でもその善悪が通用しない社会に放り込まれてしまったのです。戸惑い苛立ちもあるはず。
しかも数においても武力においても白人にかなわないから、ねじふせられてしまう。

>白人社会のある規範を、ある部分では当然のこととして受け入れながら、どこかで、自分たちの世間での基準でものを見、行動している部分がある・・・・・・それは、ここからここまでがそうであると線引きをし、留めてしまうことのできない、微妙な意識なのです。
もともと、まるっきり違う言語・文化をもった伝統集団でありながら、白人にひとまとめに「アボリジニ」にされてしまった彼らです。
彼らの言語はほとんど失われ、ぽつぽつと単語で残るのみ。
それでも、伝統集団としての歴史を持ち、その伝統の縛りを今でも持ち続け、独特の文化慣習を細々と守ってきました。


やはり、白人とアボリジニという二極で考えてしまうのですが、
両者がうまくやっていくためには、互いに歩み寄ったり、相手を尊重したりできたらいいけれど、
人口の比率が圧倒的に違いすぎる両者。
白人たちが自分たちの基準で作り上げた社会と法のなかに、入れられてしまうしかないのでした。
どんなに手厚く保護されたとしても、これは無気力にもなるよな、酒やドラッグに浸りたくもなるよな。
でも、筆者は、こういう彼らに同情するわけでもない。責めるわけでもない。
あくまでも冷静で公平なのです。この説得力。
それだけに、読んでいるわたしは、彼ら(隣人としての彼ら)のひとりひとりにやりきれないようなせつない思いを持ってしまう。


ただ、筆者が述べているように、
この本は、広いオーストラリアのほんのわずかな地域の、小さな町の限られた人々や家族の物語にすぎません。
これが町に暮らすアボリジニの今のすがたなのだ、というのは乱暴な話です。
とはいっても、やっぱり生の声なのです。
そこには、彼らの人生、彼らの一族の歴史、彼らの子どもたちの未来への思いなどが綴られているのです。
そこから、学ぶものは大きいのです。
文化は手放したら、たぶん二度と戻ってこない。
だけど、それではがんじがらめにして守ることが可能なのでしょうか。
守っているものも手放してしまったものも宙ぶらりんで、
しかも、行ってくるほど違う価値観の文化の中で暮らしていくことの困難さが伝わってきました。


この筆者が、ファンタジー作家の上橋菜穂子さん。
獣の奏者」のなかに描かれた少数民族の独特の文化や差別の物語を思い出します。
獣の奏者」が、遠い異世界の物語なのに、地に足のついた血のかよった物語であるのは、
書かれていることが、形を変えているとはいえ、「ほんとうのこと」だから、なのだ、と思ったのでした。