ガラスの動物園

ガラスの動物園 (新潮文庫)ガラスの動物園
テネシー・ウィリアムズ
小田島雄志 訳
新潮文庫


初めて読んだテネシー・ウィリアムズ
読み終えて、あとに残るのは何とも言えないやりきれなさでした。


これは、戯曲で、主人公トムの回想の物語でもあります。
ここにあるのは、ひとつの家庭。母と息子と娘。三人家族。
そして昔蒸発した父の写真がマントルピースの上から家族を見下ろす家の中の物語。
たった三人(のちにもう一人)の登場人物。そして、舞台はすべてこの小さな家だけ。
三人寄り添って暮らしているように見えるけれど、この家庭の中に安息はありません。
家族を愛しているといいながら、その愛は押しつけで、結局は自己愛でしかない(そう思える)母アマンダ。
家族を養うために(本当は叶えたい夢があるのに)望まない仕事を押しつけられ、「愛情」という名の重石を乗せられているかのようで、
いっぱいいっぱいの息子トムは、この家から出ていくことばかり考えている。
かみ合わない会話。地に足がついているとはとても思えない2人。
そして相手の気持ちをわかろうとするよりも自分のことをわかってもらえない不満でいっぱいの母と息子。


わたしは、この母アマンダが気になって気になって(笑)
だんながいなくなって、どんなに苦労して子どもたちを育ててきたんだろうね。
そりゃ、独善的にもなるだろう。
だれもかれも自分のことだけでせいいっぱいなんだもの。ここはあたしがしっかり管理してやんなくちゃやっていけないじゃないの。
そうして、懸命にがんばっているつもりだけど、実は誰かに目いっぱい依存しているくせに、
幼子を相手にするように成人した子に接し、干渉し、やらなくてもいいことにまで及んで、
愛しているつもりが、エゴイズムになってしまっても、それをわかっていない。
ああ、そんなことしないでくれ。わたしが恥ずかしくなるよ。
・・・でも、こういうことって、自分じゃなかなか気が付けないのよ。
だからといって、子から言われるなんて、最悪。母には母のプライドがあるのよ。
なんかアマンダの存在がすごーく嫌。そんなの見たくない、と思ってしまう(笑)


母と息子のあいだにいるのが、あまりにも内気で臆病なローズ。彼女が蒐集しているガラスの動物たち。
現実の世界では上手に生きられない彼女が、束の間自由でいられるのがガラスの動物たちとの時間でした。


ローズの輝く後半。いつも母と弟のあいだで静かに霞んでたローズが、魅力的に見え始めます。
彼女が大切にしている世界はなんてピュアで平和なんだろう。
もし、彼女に勇気があったら、この家庭の脆い部分を補強できる唯一の人になれたかもしれない、と思いました。
ガラスの動物たちに託す彼女の気持ちから、そう思います。
もし、もう少しでいいから、ありのままの自分を良しと思えるならば・・・。
でも彼女の人生の一番いいことがこれだとしたら(たぶんそうなんだろう)あまりに辛すぎる。
・・・それが始まったところで、思う。あまりに素敵すぎるもの。あまりに豪華すぎるもの。このまま終わるはずがない。
たとえ束の間であっても、輝いた青い薔薇。これが、家族の間にあったなら。
家族の力で、この輝きを見出して留め置くことができたなら、この家族は救われたかもしれないのに。


アマンダもトムも、ローズのことを大切に思い、心配してもいる。でも、違う・・・
彼らが、ローズを見る目、ローズについて思っていること、
それは、もしかしたら、この小さくて壊れそうな家庭そのものなのかもしれません。
ガラスの動物園は、そのままローズ自身であり、三人の家族でもありました。
ガラスの動物たちの壊れやすさは、ローズの心であり、ローズは、この家族を結びつける要だったのかもしれません。
息を吹きかけるだけでも壊れてしまうかもしれない儚さ・もろさの上で、彼らはかろうじて共に生きていたのだろう。


あとがきを読んで、これが作者の自伝的な戯曲であることを知りました。
作者の姉の人生を知り、ショックを受けました。
どんなに手厚く介護されても、失われてしまったもののは二度と取り返すことができない。
大切な場に居合わせることができなかった作者の苦しみを思いながら、物語の後半のローズの希望と絶望とを思っています。


ガラスの動物たちの透明さ、もろさ。はかないからこその美しさ。・・・それは実際壊れてしまう。
取り返しがつかない。
だから、いつまでも、壊れる直前の束の間の透明さ、美しさが蘇り、蘇るたびに、取り返しのつかなさを確認します。
鈍い悔恨とともに。