本という不思議

本という不思議本という不思議
長田弘
みすず書房


このところ、なんとなく読書に身が入らない日々が続いていたのですが、
この本が、そんな停滞ムードを吹き飛ばしてくれたような気がします。
また本と近しい関係になれそうです。ありがとう。


詩について、子どもの本について、本を作りだす人々・売る人々・読む人々について、
町の図書館や本屋のもつ意味(本を売り買い・貸し借りする、ということではなくて)について、
本そのもの(抽象的・具体的両方の)について・・・
易しく美しい文章で、きっぱりとその存在の確かさを語ってくれるのを読みながら、
やっぱり本は素敵、読書は楽しい、と思い返しています。

>出版というのは、もちろん商売です。しかし、商売だけというのとはちがい、つくるのは本という商品でも、ただ商品をつくるだけではありません。誰もまだ読んでいない本を、世に送り出す。それもできれば、のぞみうる簡素な美しいかたちで。
のぞみうる簡素な美しいかたち。
電子書籍に足りないものは、そこにあるような気がします。
簡素な美しいかたち、という点で、電子書籍が、紙の書籍を超える日がいつか来るのでしょうか。
来るとしたら、そのときこそ、紙の書籍は、安心して、自分の地位を次の時代のものに譲り渡すかもしれません。
とはいえ、それは、相当遠い未来のように思えて、
紙の本は「簡素な美しい」本であるかぎり、消えることはないのだな、と安心してしまう。
だって、ほんとに本というこの形が、装丁の可能性すべて含めてなんて美しいんだろう。


それから、ことに印象に残ったのは、子どもの本について書かれた文章。
大人であるわたしたちは、
書かれた内容(たとえば人が空を飛ぶこと)について、「これは何を表現しているのだろう」というふうに読むけれど、
子どもは、「どのようにしたら、そんなふうにできるのか」と読むのだというのです。
子どもの本好き、といいながら、いつのまにかわたしは子どもとは遠いところで本を読んでいたんだなあ、と気がつきました。

>本を読むというのは、それらの本をじっと包みもっている「時」の中へ、実は密かに旅することにほかならない・・・

>物語がくれるのは、どんな結末でもなくて、はじまりです。出口が入口であるような世界が子どもの本の世界です。

本をぱたんと閉じた瞬間から始まる冒険がある。
物語を追って旅してきた読者は、今度は自分の言葉で新しい冒険の旅に出るのだ、そう思うと、嬉しくなってしまいます。
たくさん冒険の入り口が広がる本に出会いたいと思います。そして、本と手を携えて、冒険を分かち合えたらいいな。
>本というのは、匿名の文化の所産ではありません。どのようにも固有名をあらわさずにいないもの。心に焼き印をのこすもの。それが本の秘める力です。
アメリカの田舎の本屋さんの片隅に置かれた名もなき詩人の詩集、
上海の本屋さんと魯迅の話、
詩人としてのル=グウィン
ランダル・ジャレルとセンダックの話、
アンブローズ・ピアスの「悪魔の辞典」が語りだす「信じられる言葉」、
それから、さまざまな本や物語のなかに現れる本のある空間、本が語りだす物語の背景や人々・・・
忘れられない文章があちらからもこちらからもこぼれだす。


毎年たくさんたくさんの新しい本が出て、未読の古い本もたくさんあって、日々、
読みたい本のリストはふえるばかりでちっとも追いつかないのですが、
何冊読むかよりも、大切な一冊との出会いを求めて、本と丁寧に出会いつきあっていくことをこれからの目標にしよう。
子どものときのように何度も繰り返し読むことを楽しみ、繰り返し読める本を手許に置くことの幸せを大切にしよう。