マルカの長い旅

マルカの長い旅マルカの長い旅
ミリヤム・プレスラー
松永美穂 訳
徳間書店


マルカ・マイという女性は、本当にいたそうです。
子ども時代の体験の切れ切れの記憶を作者に語ったことがあったそうです。
その話を下敷きにして、(でもドラマはフィクション)この物語は生まれたそうです。


第二次大戦下。ところはポーランドハンガリーとの国境に近い田舎街。
そして、当時7歳だったマルカ・マイはユダヤ人でした。
・・・何がおこったのか、わかるというもの。
医師であった母ハンナと16歳の姉ミンナとの三人家族・・・三人は山を越えて、隣国ハンガリーへ逃げる。
ドイツの支配の及ばない国へ。
ところが、途中、七歳のマルカが病気になってしまう。
ハンナは後ろ髪引かれる思いで、マルカを後に残していかなければならなかった。
ハンナたちが無事にブダペストに到着したとき、
マルカを汽車に乗せてハンナたちのもとに届ける約束で、案内人に多額の金を払ったのだが・・・。


ハンナたちの長い旅。マルカの長い旅。
ともに、過酷、なんて一語で言い切ることさえもはばかられるような旅。
詳しく書くつもりはないけれど、息を詰めるようにして、ほとんど一気に読み切ってしまいました。
目を離すことなんてできなかった。先が気になって気になって仕方がなかった。


数奇で、たくさんの間一髪を経験しながら、
たったひとり、とにかく生き延びるために、自分のなかの弱みに(おかあさん、という言葉にも)蓋をして、
強くしたたかになっていく七歳の少女の「生きる」が丁寧に描かれていく。
日々刻々鋭く研ぎ澄まされていく生命力は、人の強さ、おぞましさをこれでもかと見せつける。
目をそらしたいような描写も、目をそらすことなどできない。
美しいとか醜いとか、そんな形容詞は存在さえ疎ましい。
ただ、この生を維持するためだけに、体力も知力も感性も総動員していく。
自分の中から湧いてくる「生きる」本能だけを信じて、今日胃に入れるものを得、凍えないようにして、他の一切をあてにしない。


マルカのような子どもはたくさんいたのだろう。
そういう子どもに対する人々の冷たさ、無関心さが、戦争というものが人間をどういうものに変えていくのかを物語る。
マルカに生き延びろ、逃げ延びろ、と強く願いながらも、
マルカに対しても、その周りの人たちに対しても、おぞましささえ感じてしまう。
これはもう人間ではないのではないか。
それでもやっぱり生きろ生きろと願いながら読み進めるのは、私の中の命への本能かもしれない。


そして、平行して描かれていくハンナとミンナの逃避行。
こちらにもドラマがある。過酷な道のり。ただ進むことだけを思う。彼らには、目的があるから。
それと同時に、ハンナの、女として、母としての心の葛藤のリアルさに、目が離せませんでした。
ぎりぎりの精神状態の中、長女は16歳。
この年頃の娘と母との葛藤、すれ違いは、たぶん当たり前のことなんじゃないか。
そしてその当り前さが、こういう非常時にさえ、普通に起こることに、変な気持ちになってしまう。
この追い詰められた状態が、不思議に日常の延長線上なんだ、と思って。
ハンナの葛藤は、手に取るようにわかる。


マルカが人の子からまるで動物のように強く変わっていったのに対して、ハンナはたぶん弱くなった。
いえ、変わらないのかもしれない。
たくさんの武器や装飾品を身につけて強くなったような気がしているだけで、それがはぎ取られて弱さがあらわになっていく。
子どもと大人の違いだろうか。
築いてきたと思っていたものはいったいなんだったのか・・・
医師として信頼され、社会的な地位も手に入れた。
ユダヤ人でしかも女性であることがマイナスにならないように、頑張ってきたんだろうに、
いざとなったら、もろく崩れていく自信。
また、母として、二人の娘を守ってきたはずなのに、一人とは離れ離れになり戦下の中(ナチ支配下で)行方しれず。
もう一人の娘は、母の手を振り払い自分の道を歩き始めようとしている。


ホロコーストの物語だけれど、収容所は一切出てこない。
「移送」という言葉で、不気味に、その影をちらつかせるものの。
それでも、やっぱり恐ろしいホロコーストの物語なのです。
ことに、不思議な非現実感を伴うゲットーの描写です。
ユダヤ人の強制的共同体。
ある日突然、「移送」という言葉とともにドイツ人に踏み込まれ、あっというまにからっぽにされてしまう。
食べかけの夕餉のテーブルもそのままに。
今すぐだれかが、ただいま、と帰ってきそうな空っぽの街が現れる。
そして、しばらくすると、いったいどこからどのようにしてやってくるのか(集められるのか)
また、似たり寄ったりのユダヤ人たちが、この町で暮らし始める。移送のときまで。
その繰り返しの図が、あまりにも非現実的で、肌感覚がないのです。
とはいえ、突然はっと鮮明なリアリズムに打たれてぞっとするのは、
ベビーサークルの中のまだよだれに濡れたままの手縫いのボールだったり・・・


さて、ラスト。
状況はハッピーエンドかもしれない。
けれども・・・皮肉で残酷な結末に慄然とする。もはや元には戻れないのだろうか。
戦場も、収容所も出てこないのに、おなかの底から冷えがのぼってくるような「戦争」がここにはあった。