屋根にのぼって

屋根にのぼって屋根にのぼって
オードリー・コルンビス
代田 亜香子 訳
白水社


みんながみんな善意の人である場合、時に厄介だ。
屋根にのぼったのは朝焼けが見たかったから。
・・・考えなしのようだけれど、思い切って屋根に上るまでには、相当煮つまっていたのだろう。
言いたいことをがまんして、泣きたい気持ちをがまんして、苛立つ思いをがまんして・・・
がまんしているけれど、ものすごくよく観察している。
人を、状況を。ただじっと口を閉ざしている。相手の善意をわかってもいるから。
わかっているけれども、善意だけでは、人は通じ合えないものなんだよね。
そうして、少しずつたまっていったものがある。


わたしも昔、屋根にのぼるのが好きだった。屋根の上の物干し台の柵を越えて、屋根の上に降りるのだ。
なんで屋根にのぼりたかったんだろう。禁止されていたから、というのもあるかも。
すぐみつかって、叱られた。なんでみつかるのかなあ、と不思議だったけど、
瓦屋根の上を歩く音って、家の中には強く響くにきまっている。
叱られても、屋根にのぼりたかったなあ。


訳者あとがきによれば、
作者はこの作品を書いているさいちゅう、筆がとまってしまうことがあると、
あわてずさわがず、登場人物の声がきこえてくるまえ待ったそう。
そのあいだ、ひとつだけ心がけていたことは、登場人物といっしょに毎日、朝ごはんやランチを食べることだったそう。
・・・だからなんだ。
主人公ウィラ・ジョーも、小さいいもうとも、パティおばさん、ホブおじさん、ノーリーン・・・
みんなとてもリアルな存在感がありました。
「善意の人」という言い方をしたけれど、それはうすっぺらくないし、単純ではないし、とてもたくさんの面をもった人たち。
そして、その悩みや葛藤は複雑で、一言で切り捨てられるものではない・・・
それぞれにそれぞれに対する思いがあるが、
伝えたいほうも、その伝えたい言葉は、ともすると逆の言葉であったり、よくわからなかったり。
わからないまま動くから、人を混乱させたり、自分もまた思ったような成果を得られなかったり
(第一、どんな成果を願っていたのかもわかっていないし)


思い切って日常からかけ離れたところに行くことで、ゆっくり考えてみなければならなかったのかもしれない。
何か、視点を変える必要があったのだろう。
それは、図らずも、みんなを巻き込み、大騒ぎになる一方、高いところで、ゆっくりといろいろなことを振り返ることができた。
少し違った角度から、自分と他人を眺めると、自分がよく見えるようになるし、他人もよく見えるようになるのかも。
見えているつもりだったけれど、角度を変えれば違うふうに見えるし、思いがけない発見もある。
そして、こういう場所にいることを分かち合えば、ふだんなら言えないことも言えるのかもしれない。思ったままに。


こうやって、膿を出してしまうのっていいものだ。お互いに。
物語の最後の屋根の上、とっても居心地よさそう。とびきりのすがすがしさ。
みんながみんな善意の人である場合、事が起これば厄介だけど、事を収めるにはこれほど気持ちよく収まることもない。