二週間の休暇

二週間の休暇 (MouRa)二週間の休暇 (MouRa)
フジモトマサル
講談社


あれ、鳥だ。主人公以外みんな鳥なんだ。
でも、主人公も鳥たちも、ともにいることに違和感持っていないみたいだし、それなら、読者がなぜ気にすることがあろうか。
ここはなんなんだろう。少し懐かしいようなアパート、少し懐かしいような商店街。
なのに、何かが違う。おかしなところはたくさんあるけど、なんとなくそれでいいんだなあ、と思ってしまう。


いえ。
ほんとはかなり不安だ。不安だって思うことがおかしいような気がすることが不安だ。
と、思ったら、ほら、やっぱり、なんだかおかしいんだよ。
わからないことがたくさんある、ってやっぱり居心地悪い。
ちっともほっとなんてできない。不気味だと思う。


なんで、なんで、なんで、と思う。
わかりたくて、つい筋ばかり追ってしまう。
少しずつわかってくるいろいろなこと。

そうして、読み終わったとき、この世界をちっとも味わってこなかったことに気がつきます。
ただ、なぜなんだろう、何なんだろう、とそればかり追いかけていたから。
そして、読み終えてみたら、駆け足で通り過ぎてしまった世界がとても懐かしい気がしてきました。


飛べる翼があるだろうに、飛べないと思っている鳥たち。
これまでの過去の記憶が消えている主人公。
どちらも、大切なもののある場所がわからないで、わからないままに肩寄せ合って暮らしている。
その不安定感のなかから、お互いに対する憐れみのようなものが生まれるのだろか。
ここが仮の居場所だと感じている者同士の共感のようなものがあるのだろうか。


本なら、後戻りできる。何度でも味わいなおせる・・・
振り返ってみれば、せつないような懐かしさがある。その懐かしさは不安定感といっしょにある。


この本のタイトルは「二週間の休暇」
休暇って言葉にはわくわくする響きがあります。
ベルヌの「二年間の休暇」も、この本も、「休暇」とはいうけれど、望んでとったわけではない。
いやおうなしにそこにいて、
そこにいることも、そこから出ることもなんとかしなくちゃ、と結構必死に手段をさがしていたりして・・・
日常と切り離された世界の必死さが休暇。それは、のんびり何もしないでだらだらすることではない。体を休めることではない。
晴天の霹靂のように押し寄せてくる休暇は、怖いけど、やっぱりどきどき、ざわざわする。わくわくする。
日常から切り離された期間限定の時間。


目が回るほどに忙しい現代社会の中で、わたしたちは、あっちこっちを調節してやっと休暇を手に入れます。
せっかくとれた休みなら、過ごすべき場所の隅から隅まで予習して、すごすべき時間の隅から隅まで計画して、
一分だって無駄にしないで遊びつくそうとする。
せわしない休暇を、仕事以上に忙しくきりきりとすごして、「遊ぶって疲れるよね」なんて思っていたけど。
計画的なこういう時間って「休暇」っていうのかな・・・すごく贅沢なことを言っているけど。
もしかしたら何か大切(だと思っているもの)を思い切って担保に入れないと、こんな休暇は味わえないのかな。


空を飛ぶ鳥たちのきりりと自信に満ちた姿は、なんだろうなあ。置いていくものを振り返らずに飛んでいく。
ここでの日々は、束の間の場所・時間であっただろうけど、いつか、どこかで、ふと懐かしく思うときがくるかもしれない。
ちょっと弱っているときなんかには特に。

>世界の最期に選ぶ本がハウツー本か。君には詩的感覚が足りないな。
そんなだからいざというときに飛べないんだ