とむらう女

とむらう女 (オールタイム・ベストYA)とむらう女 (オールタイム・ベストYA)
ロレッタ・エルスワース
代田亜香子 訳
作品社


タイトルの「とむらう女」、表紙の絵は何か神秘的なムードの女性の姿。
「おとむらい師」という職業(?)があるらしい。
全面的に「死」がテーマの物語だろうか。
しかもその死が特定のだれか、というのではなく普遍的な(?)死だとしたら、あまり読みたい感じじゃない。
そう思って手に取ることを躊躇していました。
でも、この気持ちって、フローおばさんがおとむらい師と聞いた時の主人公イーヴィーの気持ちと似ているんですよね。


主人公イーヴィーは11歳。パパと5歳の妹といっしょにミネソタ州のプレーリーに住んでいました。
愛するママが肺病で亡くなったばかり。
その家に、パパのおねえさんのフローおばさんが手伝いに来てくれることになったのです。
フローおばさんは、イーヴィーにはよく理解できない「おとむらい師」なのだそうです。


イーヴィーがフローおばさんを拒否するのは、まず、一番に、ママが亡くなったばかり、
そのママの居場所に、会ったこともないおばさんが取って代わろうとしているのではないか、という反発。
深い喪失感と悲しみに包まれた11歳に、いきなり新しい環境が提示され、それに慣れろ、というのは、
必要なことだとしてもかなり酷だと思います。
フローおばさんがママの居場所を乗っ取るわけではない、ということがだんだんわかってきたとしても、
おばさんを家族として受け入れるにはかなり時間がかかるのです。
イーヴィーがフローおばさんに心を開いていく過程は、ある意味お約束通り、と言えないこともないのですが、
やっぱり、その丁寧な描写には打たれます。そして、イーヴィー自身のために、しみじみと幸福な思いに浸るのです。静かで美しい本です。
だけどそれだけじゃないんですよね。


イーヴィーがフローおばさんを拒否する理由は、「とむらい師」という言葉の得体のしれなさのためです。
とむらい師とはなんなのか。
簡単にいえば、死者を清めて葬儀の準備をする仕事のようです。この仕事におばさんは、誇りを持っています。
いわゆる労働して賃金をとる「職」ではなくて、呼ばれればいつでもでかけていくけれども、ほとんどの場合お礼を受け取りません。
たぶん肉体ではなく、心の仕事なのでしょう。
わたしが最初「とむらい師」という言葉を胡散臭いな、と思ったのは、葬儀業の別枠(?)のような気がしたからです。
そして、文化が違えば、人の生き死にに、よりそういろいろなやりかたがあるだろうけれども、
それをことさらに仰々しく物語の主題として取り上げるのは、死者に対する冒涜に近いのではないか、と思ったからです。
でも、この本を読み、イーヴィーとともにフローおばさんの人となりを知り、フローおばさんのやり方を学びながら、
だんだんに知るようになったのは、とむらう人の死者に対する敬意でした。


命は土から生まれる、命は土にかえっていく。命はめぐる。
誕生を「ようこそこの世へ」と喜び迎えるように、死のときにも、この世に残る人の手によって丁寧に見送りたいものです。
とむらい師という聞きなれない言葉を通じて、命を見送る心を教えられたような気がします。
死を悼む、ということの意味は、死を受け入れることでもあります。
忙しさにかまけて、死の悲しみを忘れる、というのではなくて、
丁寧に、静かに、死者を清め、死者とともに過ごすことにより、死者が、生まれる前の世界に旅立ったことを受け入れる。


何かを乗り越えて子どもたちは大人になっていきますが、この物語では、死を受容することを通して、イーヴィーは成長します。
母を亡くした少女は、状況により、はからずもダイレクトに人の死と向かいあうことになります。
でも、このように丁寧に、静かに、積極的に死と向かいあい、死を受け入れることができることは貴重ではないでしょうか。
母の死によって深く傷つき悲しんでいる少女にとって、普通に考えれば、あまりに酷いように思われる癒しの方法が、
フローおばさんという深い叡智と愛情に満ちた人の導きによって、大切な成長の糧に代わっていたことが素晴らしいです。
わたしたちもまた、方法はさまざまだけれど、長いあいだに、死と生とを同じ重さで受け入れることを実感することがあるように思います。
それが、大人になる、ということのひとつのプロセスなのだ、ということを、静かに見せられたような気がします。