オリガ・モリソヴナの反語法

オリガ・モリソヴナの反語法 (集英社文庫)オリガ・モリソヴナの反語法
米原万里
集英社文庫


嘘つきアーニャの真っ赤な真実』以来、二冊目、四年ぶりの米原万里さんの本。
読み始めてからしばらくして、やっと、これは小説だったのだ、と気がつく始末です。
とはいえ、この物語の背景は、生々しい真実のルポルタージュのようだし、
少女時代をプラハソビエト学校で過ごした主人公志摩は、米原さん自身であるかのように感じます。
42歳のある日、東京からモスクワへ渡り、
消息不明だったプラハ時代の親友と再会、ともに嘗ての忘れられない師オリガ・モリソヴナの隠された過去をさがします。
その記録は、まるで、『嘘つきアーニャ』の三つの物語の続きの話のようにも感じました。


力強い文章。
ミステリを旅する、というだけでも面白いのに、舞台は、ほとんど知らない戦前から現在(?)までの約半世紀間のロシアです。
しかも案内役は米原万里さん。おもしろくないはずない。


遠く甘美なようで、一抹の不安の影がつきまとっていた少女時代。
その師の過去を探す旅は、不本意な生き方をしてしまったように感じている主人公の、自分の原点を探す旅でもあります。
そしてその旅は、思いもかけない方向に向かっていくのです。
スターリン時代の人権蹂躙の粛清の実態。その犠牲。
そして、現代のロシアがどんな問題を抱えているのか。
また、日本との文化比較なども興味深いものでした。


スターリンの粛清の犠牲となり、ラーゲリの収容所に送られ、九死に一生を得た一人の女性の物語のなかで、
「寓話のおかげで生き延びたんですよ、わたしたち」という言葉が強い印象になって残りました。
失意と空腹を抱えた夜のバラックで、交代で朗読暗唱する『アンナ・カレーニナ』『三銃士』『罪と罰』『白鯨』・・・
ただでさえ少ない睡眠時間を侵食してもなお、これらの文学は、女たちの肌のうるおいや目の輝きをとりもどさせる。
これ、実話でしょうか。実話にちがいない、と信じています。
フランクル博士の『夜と霧』の一部とだぶって心に響きます。
人を生かすものは、きっとパンや水だけではなく、内面から照らす光なんだ、ということに感動します。


少しずつ解き明かされる謎とその節々にこもる人々の思いに圧倒されながら、主人公の行動を追う。
そうして、わたしは、自分の立ち位置をいやおうなしに見直させられていたのでした。
主人公志摩が、オリガを追いながら、自分自身が何者なのかを見つけていくに従って、逆に私自身は、自分がわからなくなっていきました。
この国に生まれ育ち、この国の文化習慣にどっぷりとつかり、さしたる疑問も感じずにここまできてしまったこと、
そして、真実だと思っているものが、案外、単なる私の思い込みにすぎなかったのではないか、と考え始めました。


倫理感が堕落しきって、市民は自国のありさまを恥と思うそのモスクワで、
主人公志摩が会う行きずりの人々は、ほとんどの人たちが、旅行者である彼女になんて親切だっただろう。
自分の時間を惜しまずに、彼女の力になってくれた名も知らぬ人々の温かさが、この本の中にあふれていて、
これが、この国の底力だとしたら、決して恥じ入るものなどないだろうに、と思いました。
ロシアに対する偏見は、日本に住む私もあります。
付録の池澤夏樹さんとの対談の中で、ソビエト学校と日本の公立中学校の比較を読み、
共産主義のほうが『自由』だった」という言葉に驚くとともに、
言われている言葉ひとつひとつにいちいちもっとも、と、うなずきつつ、
自由なはずの日本で、自分たちを不自由にしているのは、ほかならぬ私たち自身の不自由で縛りの強い考え方なのだ、と思った。
自由ってなんだろうなあ、と思いました。


最後のほうに出てきたこの文章。

>オリガ・モリソヴナの全てが反語法だったのだなとも思えてくる。まるで喜劇を演じているかのような衣装や化粧や言動は、その裏のむごたらしい悲劇を訴えていたのだろうか。
(中略)オリガ・モリソヴナの反語法は悲劇を訴えていたのでなくて、悲劇を乗り越えるための手段だったのだ、と。
この文章を読みながら、そうして、この小説そのものが大きな反語法なのではないか、と思えてきました。
ロシアでオリガ・モリソヴナという人を探す物語は、故国日本と自分自身をさかさまに写す物語だったのではないかと。