だあれもいない日―わたしのおじいちゃんおばあちゃん

だあれもいない日―わたしのおじいちゃんおばあちゃんだあれもいない日―わたしのおじいちゃんおばあちゃん
山中利子 詩
やまわきゆりこ 絵
リーブル


>はたけをたがやすおじいちゃん
あねさまかぶりのおばあちゃん
消えてしまった、懐かしいもの、愛おしいものを、鮮やかに見せられたようで、
しかも決して決して取り戻すことのできないことを再確認して、たまらない気持になってしまう。
失くしたもののことを「もうないんだな」と折り合い付けて暮らしていたのに、ううん、ほとんど忘れていたのに、
もういっぺん同じ喪失感を味わってしまった。
でも、その前に、こんな至福の時があったことも思い出して、この本、玉手箱みたい、と思ったりもしました。


子ども心の詩。
遠い風景は、私の育った世界とはもちろん違うけれど、
大家族の中の年寄りっ子だった私には、ここに歌われる気持ちはどれもどれも、覚えのあるものばかり。
こんなふうにして暮らしていたんだっけ。こんなふうにたくさんの目の中で育ったんだっけ。
当たり前のように、恵まれた境遇の中で呼吸しながら、自分だけの内緒ごとも、もっていたものだった。
詩だけれども、そこから鮮やかに浮かび上がってくる光景は、すごく広くて、その前後の時間にまでつながっていて、大きな物語のよう。
大きな物語なんだけど、とりとめのない物語でもあります。平和と調和の物語でもあります。
こういう世界に子どもがいた。大切に守られて。


町の時計屋さんに飾られた水晶の首飾りがほしくて、「ほしいよう、ほしいよう」と泣く「わたし」をおばあちゃんが一生懸命なだめます。
代わりに買ってやろうという物の名前の列挙。
ままごと、お菓子、洋服・・・そのとき、ふっと景色が変わる。
わずかな陽の陰りや照りだけで。そこに子どもはすでに気をとられ、その美しさに夢中になってしまう。
この詩がとても好きだな。「きれいだから見て」とおばあちゃんに言う子どもの顔を、おばあちゃんはやれやれと安堵して眺めただろうか。
きれいなのはこの子の顔だ、と思っただろうか。


読み進めると、詩のなかに、わずかにわずかに、おじいちゃんやおばあちゃんの老いの気配がまざってくるのを感じ始めます。
なのに、詩にうたわれている幼い「わたし」だけがそれを気付いていないのです。
ただただずっと続く平らな地平の平和を満喫して暮らしている。
やがて、ある日がやってきて・・・子どもは知るのです。明確な感覚ではなくて、肌感覚で。
いっしょのふとんで寝起きしてきた年寄りと孫だけが肌で知っている何かが、守られるものと守るものの立場が入れ替わったことを知らせる。
同じ場所で同じ顔で笑っていても。子どもの心には何がうつっていただろう。
自分でも意識なんかできない、どこか遠い無意識の世界で、何かを感じていたのだろう。
だから、あとから鮮明に思い出す、なんでもないあの時間。


音もなく、ただ映像だけでよみがえってくる昔々の一瞬一瞬の小さな平和を思い出していました。
どの瞬間の私の家族も、ほのぼのと笑っている。
特別な日ではない、静かな平和が、そこにもここにも、あった。
その空気を思う存分、吸い込んで暮らしていた。
今は、その子どもが大人になって、だれかを守り、だれかのために、落ち着いた時間の一部になっていられたら、うれしい。