黄色い本 ジャック・チボーという名の友人

黄色い本 (アフタヌーンKCデラックス (1488))黄色い本 (アフタヌーンKCデラックス (1488))
高野文子
講談社


就職を目前に控えた高校生の実地子が、ずっと本を読んでいる。最初から最後まで。黄色い表紙の『チボー家の人々』を。
ただそれだけの話なのです。
ほんとに、それだけの話だけど、・・・


実地子は本を読む。
机の上、まるいちゃぶ台の上、廊下にうつぶせになって、夜、布団を引きかぶって、通学バスの中で、学校の授業中の内職で。
黄色い分厚い本五冊。
何日も、何カ月もかけて、
読みながら、作中人物ジャックになりきり、
彼の何もかもがわかると思ったり、自分がその仲間だったらどうしただろう、と思ったり、
物陰から彼を見守り、ふいに文中から消えてしまった彼の消息をさがし・・・現実の世界と本の中の世界(半ば以上空想・妄想)を重ね・・・

>ところでジャック
わたしとあなたは
前々から友達になれると信じてたわ。
だって
あなたとわたしって
とっても考え方が
似ているんですもの
そう思わない

>ジャック聞こえますか
従妹さんが泣くので革命ができません。
カア様が起きるので革命ができません。

>ジャック
家出したあなたがマルセイユの街を
泣きそうになりながら歩いていたとき、
わたしがそのすぐ後を歩いていたのを知っていましたか?

そして、実地子さん、そんなあなたの後をこのわたしが歩いていました。


そんな読み方をしたことがあったかもしれない。
この本は特別、と思った本があった。
寝ても覚めてもその本のことを考えていたことがあった。
われにもなく幸福な気持ちがわきあがってきて、ああこの本を読んでいるのがうれしかったんだ!と思い至ってあきれた。
懐かしいあのころ。恥ずかしいあのころ。
いつから、こんなふうにのめりこんで本を読めなくなったのだろう。
もしかしたら、こんな読み方ができるのは、若い日だけの特権なのかもしれない。
本とともにある実地子の日々は、本好きなら、きっと深く共感できる。
サッカーやテニスや陸上にかけた青春や、あるいは恋や友情の物語なら、それだけでドラマチックな物語になるだろうけど、
本とともにある青春は、一見あまりに地味で、静かで、大きな動きも揺れもないように思えるかもしれない。
でも、それなのに、胸の奥からわきあがってくる共感でいっぱいになってしまう。
わたしもこの世界に、きっといた。
こんな日々を過ごしたことがある。
現実の不安や不満、夢も喜びも、物語の中のあの人に重ねて、あの人に相談して。
その気持ち、すごーくよくわかるよ・・・
せつないような読書の喜び・・・


筋がわかってしまうから、と目次をクリップで挟んで読んでいた実地子が、
とうとう読み終えて、最後に目次をたどりながら、自分の読書の軌跡をたどるところでは、胸がいっぱいになってしまった。
それは、長い時間をかけて読み続けた日々の自分の青春の軌跡でもあったかもしれない。
ジャックという青年とともに歩みながら、自分の行く末を考えたりした日々の軌跡かもしれない。

>お別れしなくてはなりません
実地子は図書館から借りてこの本を読んでいました。
この本を読み終えるころ、おとうさんが言う。「その本買うか?」 
実地子が本を読んでいる姿をさして気にしているようにも見えなかったのに、
彼女にとって大切な本だということをこのお父さんはちゃんと知っていた。
思えば、実地子を本の世界に導いてくれたのはこの父だったのだ。
幼い日、絵本の誤植を見つけて、きちんと座りなおして、直してくれた父だった。
「好きな本を一生持ってるのもいいもんだと、俺は思うがな」
そうなんだ。
好きな本は一生持っていたいと思うのだ、わたしも。
持っていることが幸せだと思うのだ。
だけど実地子はあっさり図書館に返します。
こういう潔い本との付き合いかたがあるのだな、と思う。


若い日にのめりこんで読んだあの本の題名がふと思い浮かぶ。
今、再読したら、きっとあの日のことを思い出してすごく懐かしいだろう。
だけど、その反面、がっかりするかもしれない。
若い日の読書のときめきは二度と戻ってこないことを確認することになるのかもしれない。
思い出は思い出。別れは別れ。それがいいのかもしれない。


実地子は、高校を卒業したら、就職する。
高校生で、『チボー家の人々』を読破するなんて、この時代の高校生にしたって、相当の読書家だっただろう。
だけど、文学の道を志すでもなく、大学へ進むわけでもなく、肌着を作る会社へ就職するつもりでいる。
勉強しないことがもったいないとは思わないし、野心を持たないことがもったいないとも思わない。
(でも、お父さんが言ったように「おめでねば編めねえようなセーターを編む人」になっただろう) 
普通の会社員であり、普通の主婦であったかもしれない、地道に生きたにちがいない。
ある名もなき女性が、若い日、チボー家の人々を読破したこと、その胸の内にジャックがいたこと、
誰も知らない。知らなくていい。
ごく平凡に見える人の中には、誰も知らないけれど、豊かな宝物がある。
それはなんとわくわくすることか。