仮往生伝試文

仮往生伝試文(新装版)仮往生伝試文(新装版)
古井由吉
河出書房新社


読み切った、というだけで、気持ちとしては、完全に挫折本です。
悔しいけど、ついていけなかった。いつか再挑戦して、この難解さに太刀打ちできる日がくるでしょうか。


それでも最後まで読み切ったのは、
『往生』という不可解なことを、あちらからこちらから、さまざまに、切り込もう(?)という試みが、不思議に浮世離れした感じで、
わからないままに魅せられていた、ということでもあります。
文章もまた、美しい、というか、独特の味わいがあるのです。
まず、この文体。
口語と文語が適当に混ざりあった(半文語体、とでもいうか)独特の文体の格調高さ(私の場合、敷居の高さともいえるけど)。
この不思議な読み心地は、なんだろうなあ、と思ったら、そうだ、主語がわからないのです。
主語だけじゃなくて、時代も。古典の世界の話であったり、作者の身近な話であったり、また、創作なのか実話なのか、史実なのか・・・
それさえもわからなくさせ、しかも、ふとさまざまな場面、時代が交錯するので、より一層不思議な読み心地になります。


挫折しました、とはいいながら、この本を最後まで読み切らせてくれたのは、このとりとめのなさ。
難しい、と思いながら、時々のめりこむのは、さまざまな古典からひかれたおとぎ話めいた物語と、それにまつわる作者の考察(?)のおもしろさ。
人のあさましさや狂気などの物語です。微妙に薄気味悪く、だから余計にのめりこんでしまうような話。
それから、現在の作者の身の回りについて書かれた文章の、誰の文章にも似ない味わい深さなど、そこだけ、いいなあ、と思ったり。


☆心覚えに:心に残った言葉。

>そこの世界の色に染まることを拒むつもりなら守るべき禁止事項三、一にそこの世界の会食に加わるな、二にそこの葬式に参列するな、三にそこの女人と交わるな、もうひとつ加えて、そこで往生を遂げたと人に思わせるな

>往生など知らぬわれらにも、何かしらが年々、微妙なる楽の音とは言わず、寝間に近く聞こえて来はしないか。コンクリートの壁の内、アルミサッシの窓の外、軒にもならぬ軒の彼方から、未明の車のさざめきにまぎれて、しかし去年よりは、思えば、わずかながらきわだって、いや、何も近づきはしない。季節はずれの蟋蟀の声やら、場ちがいな狸囃子の賑わいやらを耳にするようでは厄介なことだ。

老いるというのは、しだいに狂うことではないか

☆美しいな、好きだなと思った言葉、文章
>日没から蝉の声が地上に渡り、六時半、四十五分、五十分、その声のすっかり静まった後まで空は暮れのこった。雲を抜けて高空を行くと、主翼に吊り下げたエンジンのまるみが、ほのかな茜を集める刻限だ。一日何事もなくても、それを境に眠りの変わる夜もある。

>雑木林の雨霧の中から晩い紅葉が浮かびかかる。あれはいきなり、人が立っているように感じられる。あんなに赤い人間もないものだろうに。

>地面を湿らす程度の降りの中を風が渡り、正午頃から刻々と冷えこんで暮れ方の感じになった。

読んでよかった、なんてことは恥ずかしくてとっても言えないけど、こういう本が世の中にあるのだ、と知れたことがよかった。
いつの日かの再読予定本。
きっとゆったりと時間のあるときに、
そして、往生というものを忘れたいより、もうちょっと近づけて考えることができるとき、
でもあまりそれが迫って感じられるときじゃないとき、
そういうときにもう一度ゆっくりと味わいたい。この美文のすみずみまで深く遊びながら。