ひと月の夏

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ひと月の夏
J・L・カー
小野寺健 訳
白水Uブックス


教会の壁画を修復するため、ある村にやってきた主人公バーキンは、戦争の後遺症に苦しんでいた。
この村で過ごす間に癒されていくバーキンの一ヶ月余を回想形式で描きます。


染み入るような田園風景。
同じように戦争の苦しみを引きずる発掘調査の若者ムーン。
淡い恋心を持って惹かれあう美しい牧師夫人。
素朴で温かい交流を続けた駅長一家を初めとする村の人々。


本当に何ほどの事件もないのです。淡い恋は本当に淡いし、ムーンとの友情も、淡々としたもの。
けれども、それだからいいのです。
そして、一ヶ月ほどの短い期間というのもいいのです。
これが一年、二年と続いたら、必ず出てくるしがらみが、まったくといってないのです。
旅人というには少しばかり長く、それでもやっぱり行きずりの責任のなさが、この滞在を特別なものにしているのです。
あとから夢のように思い出せる、人生の珠玉の空間になっているような気がします。


大きな苦しみや、雑多な心配事、しがらみから解き放たれた、特別な時間。
特別だから、日常とは切り離された時間だから、それだから、忘れられない、
いつまでも色あせず、宝物のように感じられるそんな時間があった、
ということは嬉しいことでもあり切ないことでもある。
そんな時間が、だれにもあるのかもしれません。
期間の長さも、その濃さもさまざま。
ただ、エアポケットのように、日常と陸続きではない、特別の時間。


静かに続く物語が、ゆったりと、ささやかな盛り上がりになるのは、最後に表れた美しさとその意味。
思いがけなく繋がりをうかがい知るもう一つの発見。
でも、それをどうしようということもなく・・・
つつましく思い出に変わっていく、
そのまま忘れられていくならそれもよしと受け入れながら。
そして、その静かさ、何気なさが、いつまでも消えない鮮明な印象となって残り続ける。
・・・好きです。どこが、というのではなくて、全体が。
たとえていうなら、この物語は淡い水彩の風景画。
そこかしこにひそむこっそり仕込まれたモチーフをのせて。