『ミスター・ピップ』 ロイド・ジョーンズ/大友りお(訳)

ミスター・ピップ (EXLIBRIS)ミスター・ピップ (EXLIBRIS)
ロイド・ジョーンズ
大友りお 訳
白水社


この島で、フランシス・オナを中心とした革命軍が、本国パプア・ニューギニアに独立を要求したことにより、「ブーゲンヴィル抗争」が始まる。
島の電気は消え、病院からはすべての医療品が本国に持ち去られた。
レッドスキンと呼ばれるパプア・ニューギニアの兵士たちは、ヘリコプターで島に降り、村々に突然現われて、殺し、奪い、これでもかというほどのさまざまな残虐行為を繰り返して去っていく。
島は封鎖され、脱出することはもちろん、海からも空からも近づくこともできない。


村の学校は、先生が(ほかの白人たち同様)封鎖前に島を脱出してしまったので、閉鎖されていた。
その学校が再開される。
村に一人残った白人で、変人のミスター・ワッツが先生になる。
彼はミスター・ディケンズの『大いなる遺産』を、毎日一章ずつ子どもたちに読み聞かせた。
「凍てつく夜」「後見人」……わからない言葉、想像できない情景はたくさんあったけれど、子どもたちは、ミスター・ワッツの読む物語に魅了されていく。
主人公である13歳のマティルダにとって、主人公ピップは親友になった。

不思議なのは、私たちが出会った場所で、その子は、木に登っていたわけでも、木陰でかくれていたわけでもなく、何と本の中にいた。これまで本の中で友だちを見つけたり、他の人の体の中に入り込むような気持ちになることができるなんて、誰も教えてくれたことはなかった。私たちは別の場所へ旅することができる


恐ろしい猛獣の檻に閉じ込められ、じわじわと喰われるのを待つような緊迫感が漂う島の暮らし。
そのなかで、こつこつと『大いなる遺産』を読み続ける日々。
13歳の少女と母親の間にわだかまっていく確執。
そして、信頼する人の過去をあまりに知らなさすぎる不安。
さまざまな糸を撚り合わせて、物語は太く強固になっていく。


レッドスキン兵は残虐の限りを尽くし、あらゆるものを奪い取っていく。
けれども、彼らは、森の恵、海の恵を奪い尽くすことはできない。
それからもう一つ、彼らが奪えないものがあった。

>しかし、家を失うことで、わたしたちは、それが守ってくれていたのはたんに持ち物だけではなくて、夜に寝床に横たわるとき、他の誰にも見せないわたしたち自身を家はかくまってくれているのだということを実感していた。そして今、ミスター・ワッツが私たちに、ゆっくりとからだを伸ばしてくつろげるもうひとつの部屋を与えてくれた。
『大いなる遺産』の本さえも、灰になってしまったとき、
ミスター・ワッツは、子どもたちに記憶の「切れ端」を持ち寄って物語を作り直すことを提案する。
毎日少しずつ、子どもたちは、心に残った場面を自分たちの言葉で、
自分たちの気持ちをおりまぜて、少しずつ思い出していく。
ミスター・ワッツは、子どもたちの言葉をメモしていく。
ディケンズの『大いなる遺産』とは別の、ブーゲンヴィル版『大いなる遺産』がここにある。
ミスター・ワッツが、物語を通して、子どもたちに贈ったのは、そういうものだ。ワッツから子どもらへ贈られた、なんと大いな遺産。


衝撃的な出来事が起こり、信じていたことがひっくり返る。
何度も奪われ、崩れ去り、再構築されてきた『大いなる遺産』は、その都度形をかえ、より豊かに自分のものになっていく。
やかて、気がついた。主人公の半生が、そのまま、彼女の『大いなる遺産』だったことに。


サバイバルの手段は鉈ではなく、物語を語ること
私のミスター・ディケンズは子どもたちにこう教えた。君たちひとりひとりの言葉が特別なんだよ。だから言葉を使うときはいつもそのことを思い出すんだ。そして君たちにどんなことがおきようとも、誰も君たちから言葉を取り上げることはできないことをしっかり覚えておくんだよ。
ひとつの物語が心の中にあかりを灯す。
けれども、物語の本領は、そのあかりのさらに先にある。その先に、その先に、と背中を押してくれる。