草野心平詩集

草野心平詩集 (ハルキ文庫)草野心平詩集
草野心平
ハルキ文庫

詩集を読み終えて、巻末の重松清のエッセイを読みます。重松清は言います。「さびしいときには草野心平を読め」

草野心平は孤独に効く。さびしさに効く。ただし、それは「孤独を癒す」だとか「さびしい心の穴を埋める」だのといったものではない。「効く」というのは「治す」という意味とは違う。むしろ逆。草野心平の詩は、孤独やさびしさ――僕の好む言い方をゆるしてもらうなら、「ひとり」をしみじみ噛みしめるためのものなのだ。


>優しさとは呼ぶまい。呼ぶと、凛とした刃がきえてしまうだろう。ぽんと突き放すように死を描く、その潔さに対して礼を失してしまうだろう。

読みながら、ああ、ほんとにねえ、と思っています。
草野心平はさびしさに効く。でも、そのひらかれたおおらかさは優しさではない。
・・・読みながら感じていた「何か」をこのように言葉にして与えられて初めて、ああそうだ、と思う。
なんだ、そういうことだったんだ、と気がついたような気がします。


かえるの一連の詩が好きで、歌っていることはかなり残酷で、かなり悲惨なことなのに、この突き放したようなユーモア。
あっけらかんとした擬音たち。
かえるたちがやってくる。次から次にやってくる。殺されても倒されても、ひるまずたゆますやってくる。はねて、おどって行進して。
その強さ、みっともなさ、悲しさ。エネルギー。
このように歌いながら、苦しい多くの時代を生きてきたのだろうか。そうして生きてきた人が、歌う。


「何何富士」という詩の一節。

>その山に似てるからといって。
△△富士。
○ ○ 富士。
中央憧憬・集権のシンボルみたいな。
何が。
何何富士であることか。
ニッポン方方の不尽に似ていて。
似ていない。
その美しさそして強さを。
むしろ静かに。
そして挙って。
夫々の独立を讃えたい。
わたしも、あまり物を考えずに何何富士と呼ぶ。
何何富士と呼んだ瞬間、それが持っている美しさも強さもゆがめてしまうかもしれない。
「日本で一番」と呼ばれるものだからという理由で、富士の似姿でしかなくなってしまったら悲しいよね。


「生きたい・生きる」の詩のなかで、四十六歳で亡くなったおかあさんの最後の言葉が「きれいだねえ。」だったと振り返る。
その言葉が以後65年もの間、詩人の中で生き続けて、絶えず勇気をくれた。
生きたい・生きる、と思わせてくれた。
「がんばれ」でもなく「生きよ」でもなく、「元気で」でもない。「きれいだねえ」
詩人も詩人の母も凄い人だと思う。