扉守(とびらもり)

扉守(とびらもり)扉守(とびらもり)
光原百合
文藝春秋


瀬戸内海と三つの山に囲まれて、海から続く雁木とよばる石段のある、古くて風情のある潮ノ道という町は、
尾道をモデルにしているそうです。
大都会の賑わいはなく、町を出て行く若者も多いのですが、独特の風情に惹かれて、町に引き止められる人たちもいるのです。
引き止められるだけではなくて、よそからやってくる旅人もいるようです。
それは、人だけではないのです・・・


不思議な物語が七つ。
この町に惹かれて集まってくるもの(または引き止められる者)がいます。
そして、それは、時にこの世の生き物じゃない場合もあるのですが・・・
読みながら感じたのは、人とか人じゃないもの、とか、そういうことはあまり関係ないのではないだろうか。
どちらも、よく似た雰囲気があって、ああ、それだからこの町にいるのだ、と、なんとなく納得できるような理由があるのです。


この町には、ほかの町には無い不思議な何かがあります。
そして、日本全国どこにでもあるんだろうな、と思うようなものもあります。
両方が互いを侵食しないようにバランスをとりながら存在している、そこに、不思議な風情が生まれるのです。
その風情(?)に敏感で、しかも、そのバランスを大切にする人(や、人じゃないもの)は、
やっぱりどうしても似てしまうのかもしれません。
それは、明確にわかっていなくても、なんとなく感じるだけでもいいのかもしれない・・・
この街が、古いものを大切にする街であるせいか、過去や未来が混ざり合ったような・・・
たぶん、はるかな昔から、変わらずにあるものが、時間の流れを忘れさせてしまうのかもしれませんが、
街の雰囲気を独特なものにしています。
この不思議は、この街なら、うん、違和感がないのです。そういう風情、です。


「風情」と書きましたが、この風情は・・・
美しいのですが、やさしさ、柔らかさなどの、あわあわとしたものだけではない、独特の凄みを隠し持っているようです。
『写想家』のなかの
「うーん、やっぱりいいわあ、一途で激しい思いって、方向性はどうでも、綺麗なのよねえ。
穏やかな作品もいいけど、わたしの真髄はこっちだと思わない?」
という言葉にこもるのと同じ思いが、この本の物語のなかにも篭っている。そういう凄さは深みに繋がります。
だから、この「風情」は、ほんわかとしているだけではない、独特の「風情」なのです。


どの短編にも必ず出てくる了斎さんという、なんともひょうひょうとした和尚さん。
すごく世俗にまみれた雰囲気がある反面、
不思議なことをあるがままに受け入れ、あれらとこれらのバランスを保つための橋になっているような人。
この人の存在がとてもいいのです。
橋、といいましたが、重要人物であるはず(ですよね)なのに、物語のなかでは、あくまでも脇役の脇役。
ほとんど何もしないのです(笑)
それなのに、この存在感。
彼が出てくるとほっとする、作中の登場人物たちも間違いなくほっとしているに違いない、と感じさせる存在感。
何もしない、ということは、何かする、ということよりも、ずっとずっと大変なことなんだ、と思います。
それを感じさせない、ということも。
優しいだけ、まめなだけではこういう人にはなれないのです。ここにもやっぱり凄さがあります。
いつもお茶らけた了斎さんの本当の顔はどんななのだろう。

>この街は都会の華やかな輝きは持たなくても、一生の宝物になる宝石のような出会いを、こうして懐の奥深くに隠しているのだ。
潮ノ道に行ってみたくなります。尾道にも行ったことはありませんが、尾道ではない潮ノ道へ。
忘れ門のある街。雁木の街。不去来の井戸のある街。中庭のある街。寺社の多い街。言葉にこもった訛りの柔らかな街。
この街にいつか行ってみたくなります。
駅を降りた瞬間にきっと肌に感じる空気でわかるかもしれません。
ここの時間の流れはほかの街とは違う。空気の濃さも、風のめぐりも、ほかの街とは違う。