今日は死ぬのにもってこいの日

今日は死ぬのにもってこいの日今日は死ぬのにもってこいの日
ナンシー・ウッド
フランク・ハウエル 訳
金関寿夫 訳

めるくまーる


今日は死ぬのにもってこいの日だ。
生きているものすべてが、わたしと呼吸を合わせている。
すべての声が、わたしの中で合唱している。
すべての美が、わたしの目の中で休もうとしてやって来た。
あらゆる悪い考えは、わたしから立ち去っていった。
今日は死ぬのにもってこいの日だ。
わたしの土地は、わたしを静かに取り巻いている。
わたしの畑は、もう耕されることはない。
わたしの家は、笑い声に満ちている。
子どもたちは、うちに帰ってきた。
そう、今日は死ぬのにもってこいの日だ。
「もう何も思い残すことは無い」と内の老人も、言うことがある。
少しニュアンスは違うけれど、こんな満ち足りた思いで死んでいけたら幸せだろう。
満ち足りた日は、どんな日なのでしょう。死ぬのに相応しい日ってどんな日なのでしょう。
この詩を読めば、何も特別な凄い日じゃないのですよね。
喜怒哀楽をともにした住み慣れた場所。
見慣れた人々とともにいて、次の世代がつつがなく成長し、いつでも自分のすべてのバトンを引き渡せるまでになっている、
それだけなのです。
それだけ・・・それだけなのかな。それだけのなかには、なんという豊穣が、あるのだろう。



フランク・ハウエルの絵が素晴らしいです。
しわだらけの老人の顔ばかりが、挿絵として、たくさん出てきましたが、どの人も、それはそれはよい表情をしているのです。
笑ってはいない。
悲しみや喜びを超えた、この深みは、何なのだろう。
いったい何と表現したらいいのだろう。
わたしには、この人たちが人生の終わりに迎えたこの表情の奥にある心を推し量ることができないけれど、
ただ畏敬を感じます。畏敬を感じつつ、惹かれ、じっと見てしまいます。
どんなふうに生きたら、こんな顔になることができるのだろう。そんなふうに思いながら、この詩を味わっています。
詩であると同時に、この絵の老人たちの知恵の言葉に耳を傾けているような気がします。


>わたしは日々年取ってゆく。
でも知っているぞ、
消えてゆこうとする青春は
わたしの不確かな知恵に身を清め
刻一刻と若返ってゆくことを。


>老年とは、雨が降らなくても
緑の丘がいかに豊かに見えたかを覚えていること
それ以外の何ものでもないのだと。


>わたしは君にこうしか言えない。
わたしはどこへも行かなかったし、あらゆるところへ行ったと。
わたしは君にこうしか言えない。
今やわたしの旅は終わったけれど、実はそれは始まっていないのだと。
過去のわたしと未来のわたし
それはいずれも、今のわたしの中にある、このように


ナンシー・ウッドは、タオス・プエピロ(プエピロ族居住地)の古老たちに私淑して、
その生き方に感銘し、それを叙事詩として表現したそうす。
巻末に原文がついているのがうれしいです。